内田雅也が行く 猛虎の地(1)ジャガーたちがトラへの夢を描いたホームグラウンド

[ 2019年12月1日 07:00 ]

雑誌『ベースボール・マガジン』1954年5月号(ベースボール・マガジン社)で紹介された阪神ジャガーズ=野球殿堂博物館所蔵 
Photo By 提供写真

 阪神タイガースの歴史上の事件や出来事があった場所を訪ね、その当時と現在を描く『猛虎の地』は2010年、18年に続き、3シーズン目を迎える。過去2度の連載では59カ所(甲子園球場は2度)を回った。あの時のあの場所は――という後日談をからめた今昔物語。今オフもまた球団創設85周年を迎える猛虎の聖地を巡ってみる。

【(1)神戸市民球場】

阪神ジャガーズの結成披露試合が行われたのは1954(昭和29)年3月28日だった。神戸市長田区、山陽電鉄西代駅前にあった本拠地・神戸市民球場に約2000人と結構な観衆が集まった。

 ダブルヘッダーで、巨人に2年目・長尾旬―新人左腕・山中雅博の継投で2―0と零封、中日にも新人・大根晃から4投手の継投で5―3と連勝で飾った。3年目の外野手・横山光次が2試合とも本塁打を放っている。

ジャガーズとはタイガースの2軍のことだ。同年1月17日、セ・リーグ所属6球団の2軍で結成された新日本リーグは1軍とは異なるニックネームを付けた。巨人は戦前戦後と幾度も来日した米3Aシールズ監督フランク・オドールの助言でジュニア・ジャイアンツ、広島は地元在住の作家・畑耕一が付けたグリーンズと名乗った。阪神はトラの弟分でジャガーとセンスを感じるが、命名の由来は伝わっていない。

 ユニホームは胸に「Jaguars」。プロ野球意匠研究家、綱島理友が阪神公式サイトに寄せた『ユニフォーム物語』によると、51~53年に1軍が使用したタテジマどころかラインもない無地のものを流用していた。

 このユニホーム写真はなかなかお目にかかれない。当時の新聞を見返すと、成績が掲載されるだけで記事も写真もない。社内でずいぶんと探してもらったが、古いネガも残っていなかった。

 今回掲載したのは野球殿堂博物館が所蔵する月刊誌『ベースボール・マガジン』54年5月号掲載の見開きグラビア。洋松(現DeNA)2軍・ジュニアロビンスとともに紹介されている。超のつくレア物である。

 「洋松とは仲が良かったんですよ」と話すのは同年入団の中村和富(当時・和臣=84)だ。大阪球場を本拠地としていた洋松の合宿所は上甲子園にあった。阪神の若手は甲子園球場内、一塁側スタンド2階で暮らしていた。「近くて選手同士、親交があった」

 熊本工で投手だった中村は1メートル65と上背はないが、切れのいいカーブが評判の投手だったと、大道文(本名・田村大五)が著した『新プロ野球人国記』(ベースボール・マガジン社)にある。

 「練習ではよく打撃投手で投げさせられた。もちろん投手で入団したつもりだった。ところが春先になるとショートを守らされてね」。2軍監督は1軍監督候補にも名前があがった御園生崇男、後にスカウトとなる河西俊雄が助監督でいた。

 当時の阪神2軍、つまりジャガーズは総勢16人。内野手が足りず、遊撃手に回され、1番打者を務めた。2年目の三宅秀史や河津憲一と内野陣を形成した。「ジャガーズ時代、高知で初回先頭打者ホームラン、後楽園でもホームランを打ちましたよ」と懐かしむ。

 公式戦は前後期制とも総当たり5回戦で行われた。前期は巨人、後期は阪神が優勝。年度王座決定戦は1勝1敗の後、第3戦を11月10日、新設の浦和市営球場(現さいたま市営浦和球場)で行った。3―1で勝ち、ジャガーズは初代王者となった。首位打者、本塁打王の横山が最高殊勲選手(MVP)に輝いた。

 新日本リーグはセ・リーグ会長・鈴木龍二が大リーグにならい「マイナーリーグとして成長させる」と2軍組織化を念頭に発足させた。セ・パ両リーグ14球団の本拠地を避け、主に地方球場を回った。北海道、東北にも遠征している。スポンサーに森永製菓がついた。移動は3等列車、宿泊は1人1泊1000円以下で審判を含め両チーム33人以内……など経費を定めていた。会長は前阪神球団代表で連盟にいた冨樫興一が務めた。

 だが、2年目の1955(昭和30)年2月にイースタン・リーグ、3月にウエスタン・リーグと今に続く組織が新たに発足。新日本リーグと平行して公式戦を開催した。阪神2軍は双方に参加した。経費の問題もあり、新日本リーグの方は試合数が大幅に減り、55年限りで自然消滅していった。ジャガーズの名称は56年まで使われた。

 中村は本来の投手に戻り、4年目の57年に1軍デビューを果たした。「あのころ、甲子園球場のロッカーに森田という名のおばちゃんがいてね。よくお世話になった。ジャガーズからタイガースのユニホームに、背番号(37)を付け替えて縫ってくれたよ」

 同年4月29日、甲子園での国鉄(現ヤクルト)戦。監督・藤村富美男から当日の練習中「おい、中村。きょう先発で行くぞ」とプロ初先発を告げられた時の興奮を忘れない。コーナーを丁寧につき、わずか2安打、9三振を奪って完封。1―0で、後の400勝投手・金田正一に投げ勝った。

 他にも先の横山は右の代打から外野の定位置を奪い、三宅は好守強打の三塁手に、山本哲也は正捕手に……と、トラを夢見たジャガーたちが育っていった。

 ジャガーズが本拠地とした神戸市民球場は1928(昭和3)年、昭和天皇即位の御大典記念行事の一環で建設された。当初は陸上競技場や水泳場などを併設した総合運動公園だった。野球場は両翼96メートル、中堅114メートル。阪神は創設初年度の36年にオープン戦を行っている。プロ野球公式戦も頻繁に行われていた。

 ジャガーズが去った後はアマチュア野球を中心に開催。88年に神戸総合運動公園野球場(現呼称・ほっともっとフィールド神戸)が完成し、出番は減っていった。

 1995年1月17日の阪神淡路大震災で長田区は甚大な被害を受けた。球場内には30棟、248戸の西代仮設住宅が建てられ、ピーク時は500人以上が暮らした。スコアボードが残り、ベンチに洗濯物を干す光景が見られた。復興が進み、2000年で取り壊され、跡地は西代蓮池公園となった。遊歩道や遊具が備わった市民憩いの場となっている。=敬称略=(編集委員)

続きを表示

この記事のフォト

「大谷翔平」特集記事

「始球式」特集記事

2019年12月1日のニュース