栗山監督 WBC熱を次世代へ「子供に自由を、キャッチボールを」 スポーツの魅力発信へ名物コラム復活

[ 2023年5月16日 05:30 ]

子供らとハイタッチを交わす栗山監督
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 3月のWBCで侍ジャパンを率いて09年以来、3大会14年ぶり3度目の優勝に導いた栗山英樹監督(62)が本紙にコラム「熱中先生」を再スタートさせる。92年5月12日付紙面から始まった連載は、日本ハムの監督就任に伴い、11年12月29日付紙面をもって一時休載となるまで746回掲載。独自の視点で野球、スポーツの話題を伝える月1回の連載「帰ってきた 熱中先生」第1弾は、世界一の陰で感じた野球界の危機「子供たちの環境」に迫った。

 WBCから2カ月弱が過ぎた。選手たちが魂を持って戦い抜いた結果の世界一。帰国してから、多くの人たちに言われるのは「おめでとう」という祝福の言葉よりも「ありがとう」だった。あの戦いを見て選手たちの思いが伝わり、元気や勇気をもらえたと言ってくれる人たちがたくさんいる。こんなにうれしいことはない。だからいつも、感謝の言葉をもらったら「おめでとうございます」と返させてもらってる。

 今回、日本ハムの監督就任に伴って休載していた「熱中先生」を再開させていただくことになった。野球だけでなくスポーツが持つ力、面白さをいろいろな角度から伝えていけたらと思ってる。

 この連載再開に当たって、最初に取り上げたかったのが「子供たちの環境」だ。実はWBCから帰国後、子供たちから手紙をもらった。手紙の主は実家がある東京都小平市で、私がかつて所属していた少年野球チームの選手たちだ。私のオヤジ(正彦氏=故人)が監督だった「富士見スネークス」は10年ほど前に活動を終了、その後「小平フェニックス」「小平イーグルス」と合併して現在の「小平小川ベースボールクラブ」として活動している。後輩たちから手紙をもらい、子供が野球をやる環境はどうなっているのか。自分の少年時代とどれだけ違っているのか、実際に見たくて、4月下旬に小平市のグラウンドへ足を運んだ。

 当日は小平市軟式野球大会の最終日。「小平小川ベースボールクラブ」は3位決定戦を戦っていた。試合は4―6で敗れたけど、子供たちがひたむきにプレーする姿って素晴らしい。彼らを見て思い出したのは、主将だった小学6年の最後の大会。投手兼遊撃手だった私は、厳しい監督だったオヤジに「おまえじゃ勝てない」と言われて投げさせてもらえないまま、チームは優勝した。そんな懐かしさとともに感じたのは当時との違いだ。私のころは市内に80チームほどあったのが、現在は13チーム。チーム数が減れば当然、大会も減っていく。せっかくできた環境が次代へ受け継げなくなる。

 私の実家の前には25メートルプールくらいの広さの空き地があって、オヤジとよく練習したのを覚えてる。それが今は親子でキャッチボールする光景もあまり見かけず、空き地自体がない。公園はキャッチボールが禁止されているところが多く、場所によっては練習や試合をしていると、近隣住人から「子供の声がうるさい」と苦情が来ることがあるそうだ。

 聞けば、幼稚園では園児たちに園庭でサッカーをさせるところが多いという。子供たちにとっての入り口がキャッチボールではなく、パスから入るということ。これには少し驚いた。サッカーなら安全に、楽しくできるということだろう。でも、キャッチボールだって軟らかいボールを使うなどすれば、ケガの心配もなく楽しく遊べる。入り口が狭まれば、その先にあるのは競技人口の減少。このままではいけない。園庭にパスする子がいて、キャッチボールする子もいるようにできないものだろうか。

 後輩たちの手紙の一通には「サッカーをやると言ってた友達がWBCを見て、野球をやると言ってます」と書いてあった。実際にWBCの後に体験入部が急増したそうだ。でも、だからこそ、子供たちが野球をできる環境を整えないといけない。具体的な策はすぐには出てこない。でも、まずはキャッチボールを自由に楽しめるように。私にこれから何ができるのか、しっかり考えたい。

 ≪92年開始≫ ▽熱中先生 栗山監督が本紙で執筆活動を始めたのは現役引退翌年の91年。独自の視点から健筆を振るい、連載は92年5月12日付紙面からスタートした。スタートした時のタイトル「トライアウト」はその年の春、大リーグ挑戦で受けたトライアウトから引用。93年3月27日付の第41回から「熱中せんせい」、第389回から「熱中先生」となった。93年は桐朋学園短大の講師となり、教壇に立つ夢をかなえたことでタイトルを変更。現在も白鴎大に教授として籍を残している。

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