【内田雅也の追球】球団の栄枯盛衰見つめてきた“生きた証人”、阪神・女性広報の「卒業」に思う

[ 2022年7月19日 08:00 ]

参加者と記念撮影する村山久代さん(中央)
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 10年ほど前だったか、甲子園球場6号門(関係者出入り口)の外に今はなき三宅秀史さんがいた。「いやあ、中に入れてくれませんのや」と苦笑する。阪神OB章など身分を証明するものがなく、足止めを食っていた。吉田義男さんと三遊間を組んだ、往年の名サードに何という仕打ちを……と思ったが、受付には顔を知る者がいない。

 すぐ球団広報に電話すると、村山久代さんが駆けつけてくれ、丁寧に応対してくれた。その後も球団役職員の世代交代が進み、古い(しかし偉大な)OBや関係者の顔を知る者が少なくなった。悲しいが、これが現実である。その点で村山さんは貴重な存在だった。何しろ、入団が1978(昭和53)年なのだ。

 そんな村山さんが今月末で定年退職する。97年から球団初の女性広報を務め、14日に甲子園球場で開かれた「送る会」ではマスコミ関係者54人が「卒業」を祝った。

 「古い関係者を知る人がいなくなるのは損失だなあ」と伝えると「次の人が出てきますから」と笑っていた。

 入団は阪神が初めて行った女性職員の公募。小さいころから阪神ファンで短大で就職活動中に応募し採用となった。最初の仕事は同年創刊の機関誌『月刊タイガース』の編集だった。創刊号には球団役職員全員の名前があり、わずか40人。現場に出ているスカウト、トレーナーなどを除けば、球団事務所には10人ほどしかいなかった。初出勤し、イスに座っていた男性にあいさつすると本紙阪神担当だったという笑い話がある。前任の戸沢一隆球団社長時代「戸沢商店」と呼ばれた風情が残っていた。

 この78年はさらに史上初めてチアガールを採用している。村山さんは「後から聞きました。あの年は後に小津さん(正次郎氏=本社専務)が球団社長になることが決まっていて、変革に動きだしたそうです」と話す。

 しかも同年は球団史上初の最下位で変革が加速した。電鉄本社・球団で「再建委員会」を設け秘密会議を繰り返した。

 村山さんは、そんなどん底からスタートし、栄枯盛衰を見つめてきた。生き証人でもある。道理でストーブリーグ取材でも、平然とマスコミ対応していたわけだ。

 寂しい村山さん退職でまた思う。歴史を大切にしたい。 (編集委員)

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2022年7月19日のニュース