昭和天皇が初の野球観戦 和歌山・桐蔭高スタンド・グラウンド 「野球の聖地・名所150選」発表

[ 2022年7月19日 15:00 ]

1922(大正11)年12月2日、和歌山中グラウンドを訪れた皇太子(後の昭和天皇)。後方に完成したスタンドが見える=「和歌山中学校・桐蔭高等学校野球部百年史」より=
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 【内田雅也の広角追球】日本に野球が伝わって150年の節目を記念した全国の「野球の聖地・名所150選」が19日、発表された。プロ・アマ一体となった企画で、一般公募や各種団体の推薦を受け、日本野球機構(NPB)、全日本野球協会(BFJ)、野球殿堂博物館が「日本の野球を支えてきた場所」と認定した。

 全国で3校選ばれた高校のうち、和歌山県立桐蔭高(旧制和歌山中)のグラウンド・スタンドを取り上げる。昭和天皇が初めて野球の試合を観戦した場所で、建設100周年を迎えたスタンドが今も残っている。

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 昭和天皇は皇太子時代の1922(大正11)年12月2日、和歌山市の旧制和歌山中(和中)を訪問し、同校OB軍―現役軍の紅白戦を観戦した。戦後1959(昭和34)年にはプロ野球初の天覧試合で巨人―阪神戦(後楽園球場)を観戦した昭和天皇にとって初めての野球観戦だった。皇族観戦の台覧(たいらん)試合と呼ばれる。

 球審を務めたOBの出来(でき)助三郎氏は『和中・桐蔭野球部百年史』で<当日は万一を慮(おもんぱか)って三塁側へ設けられた御座席の天幕前には支柱を立て、ネットを張りボールの飛来に備えるという物々しさで、関係者の心づかいは大変なものでした>と記している。

 予定の30分を15分延長し、3回まで観戦した。試合は3―1でOB軍がリードしていた。皇太子は同日の夕食時「和歌山中学の野球は中学としては珍しい。他の運動も盛んであるか」と関係者に尋ねたと当時の大阪毎日新聞が伝えている。

 和中は同年夏の全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)で2年連続優勝を果たしていた。優勝後の9月、和中野球部は日本統治下の満州(現中国東北部)の青島体育協会からの招待で青島遠征中に台覧試合内定の報告を受けた。帰国後、準備を急ピッチで進めた。

 この時、運動場東側の丘陵斜面を利用して建設されたのが観覧席のスタンドだった。コンクリート製で、一塁側に長さ112メートル、12段ある。総工費7300円は今の貨幣価値(米価換算)で約6000万円。保護者会と県、市が負担し11月に完成した。翌年9月には紀伊徳川家当主からの寄付で北側(右翼側)に52メートル、10~11段が増築された。

 出来氏は<その頃中学校校庭としては日本一の威容を誇った>と記す。皇太子随行の牧野伸顕宮内大臣(大久保利通次男)は「和歌山中学運動場の野球スタンドは全国いずれの大学、中学にもその比を見ない立派なものである」と語った(大阪毎日新聞)。

 建設100周年を迎えているスタンドは昭和後期の改修を経て、今もある。昨年2月には「旧制中学校の歴史を物語る」と文化庁の有形文化財(建造物)に登録された。

 卒業生が卒業写真を撮影する伝統は大正時代から続いている。コロナ下で自粛しているが、体育祭では全校生徒が着席し応援合戦を繰り広げる。夏の高校野球和歌山大会前にはチアガールやブラスバンド、控えの野球部員らが応援練習を行う。かつては体育の授業で男子生徒が体操着に着替える場所でもあった。

 今回の「150選」認定を受け、桐蔭高の笹井晋吾校長(59)は「光栄で誇りに思います」と話した。同校卒業生でもあり在学中は改修前で「当時はレンガ造りの塀、崩れかけた座席など、さらにおもむきがあった」と懐かしむ。「野球部だけでなく在校生、卒業生にとっても思い出深い場所。運動場もスタンドも桐蔭での学校生活で常に目の前にありますから」

 野球部の矢野健太郎監督(32)によると、スタンドは「両足跳びで2段、片足跳びで1段、ちょうど良い高さ」とボックス・ジャンプと呼ぶトレーニングで使用している。「伝統ある野球部の一員として部員に伝えていきたい」と、この日の練習後にミーティングを開いた。今夏の和歌山大会は初戦を突破し「今後に向けての力にも励みにもなる」と話した。

 野球に関する著書が多いノンフィクション作家の佐山和夫さん(85)にとっても思い出深い場所だった。45年8月の終戦時、和歌山師範学校付属国民学校(今の和歌山大教育学部付属小学校)3年生。父親は和中の英語教師で、敵性語として教科から外れた後は修身などを受け持っていた。一家は学校敷地内の官舎に住んでいた。「戦時中、スタンドに防空壕(ごう)が掘られていました。子ども心に戦争が終わったと実感したのは、いくつかの穴がふさがれるのを見た時でした」

 グラウンドは戦後53年に県営向ノ芝球場(63年閉鎖。跡地は今の県立体育館)が開場するまで、和歌山県の主要球場として大会を開催していた。佐山さんは「地名から“吹上球場”と呼ばれ、大観衆で埋まっていました」と話す。

 日本の野球の歴史を彩った「球場」であり、「スタンド」だった。 (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。85年入社。2003年編集委員(現職)。07年から阪神を追うコラム『内田雅也の追球』を連載し16年目を迎えている。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長。

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