【あの甲子園球児は今(15)関大第一・久保康友】思い出深い高校通算1号、北の大地で投げ続ける松坂世代

[ 2022年8月19日 07:30 ]

関西独立リーグ・兵庫ブレイバーズの一員として試合後に笑顔を見せる久保(中央)
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 熱戦が続く甲子園球場からはるか遠く離れた北の大地に久保康友はいた。

 ロッテ、阪神、DeNAと渡り歩き、プロ球界で積み上げた通算勝利数は97。そんな久保は今、さわかみ関西独立リーグ・兵庫ブレイバーズの一員として白球を追っている。今月12日から北海道ベースボールリーグの富良野ブルーリッジへレンタル移籍し、23日まで在籍する予定だ。富良野では地域交流の一環として、ししとうやトマトを扱う農家にも足を運んだという。競技者としての“終着駅”を定めていない久保は、充実した毎日を送っている。

 久保の名前が広く知れ渡ったのが1998年の選抜大会だった。関大第一の主戦投手として準優勝に輝いた。決勝では横浜の松坂大輔(スポニチ本紙評論家)と投げ合った。のちに多くの同学年がプロで活躍し、松坂世代と形容される黄金世代を盛り上げてきた一人だ。この松坂世代で今なお現役を続けているのは、久保と和田毅(ソフトバンク)の2人だけになった。

 98年の夏は激戦の北大阪大会を制し、春夏連続の甲子園出場を決めた。春の選抜大会準優勝に続いて夏の選手権大会も8強に躍進したが、クレバーな投球を披露したマウンドでの思い出は意外にも少ない。「覚えているのは“暑かったな、しんどかったな”ということくらい。とりあえず、アウトローへの出し入れをきっちりしようと全試合で思っていたことくらいです。良い投球ができたのも1、2回戦くらいだけでしたね。あとはもうフラフラでしたから」と当時に思いをはせた。

 夏は1回戦で日本航空に競り勝ち、2回戦は尽誠学園を1点差で破った。いずれも一人で投げきった。ただ、久保にはマウンドでの快投よりひそかに誇りを持つ成績が一つある。3回戦の滑川戦で7回に左翼へ放ったソロ本塁打だ。高校通算1号。後にも先にもスタンドに放り込んだ本塁打は長い野球人生でこの1本しかない。

 「ホームランは人生で1本しかありません。僕は高校通算本塁打が1本だけ。プロでもホームランはありません。滑川戦で打ったホームランは、弾丸でスタンドに入ったんです。僕、ホームランを打ったことがないから、あの時は必死で走りましたよ。頭が真っ白になりましたね。練習でも打ったことがないのに、奇跡が起きたのです。打撃練習ですらフェンスを越えたこともなかったのに」

 中学時代は控え選手で、試合にはほとんど出ていなかったという。「少年野球のランニング・ホームランはありますが、スタンドインは初めて。外野にも飛ばないくらいだったので」。対戦相手の滑川には久保田智之(現阪神2軍投手コーチ)がいた。久保田は4番・捕手で先発し、3番手投手でマウンドにも上がっている。当時、捕手と投手の二刀流選手として聖地を沸かせた一人だった。久保が本塁打を放ったのは2番手投手からで「久保田にはきっちり三振をとられましたよ」と笑った。

 17年にDeNAを退団後、米国やメキシコの独立リーグでもプレーした右腕。どんなカテゴリーでもどんな環境でも楽しむことを最優先するのが久保という男だ。「独立リーグの環境改善の手助けが少しでもできたらなと思っています。このリーグは、まだ野球に全力を注げるような環境にはありません。少しでもいい環境になったら、化ける選手だっていると思うのです。これは現場で、中に入らないとわからないことですから」。今でも野球少年のようなまなざしで白球を追っている。=敬称略=(吉仲 博幸)

 ◇久保 康友(くぼ・やすとも)1980年(昭55)8月6日生まれ、奈良県橿原市出身の42歳。関大第一では3年春夏に甲子園に出場し春は準優勝、夏は8強入り。松下電器(現パナソニック)を経て04年自由枠でロッテ入団。05年新人王。阪神、DeNAでもプレーし、通算304試合登板で97勝86敗6セーブ、防御率3・70。18年に米国の独立リーグ、19年はメキシカンリーグでプレー。22年に兵庫ブレイバーズ入り。1メートル81。右投げ右打ち。

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