アーロン氏と親交40年米記者が特別寄稿 差別に負けぬ静かな闘士 愛された品格と豪打

[ 2021年1月24日 05:30 ]

ハンク・アーロン氏死去

ハンク・アーロン氏(AP)
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 【トム・ホードリコート記者 追悼特別寄稿】ハンク・アーロン氏は大リーグの歴史に残る強打者だが、一人の人間としてはもっと偉大だと、多くの米国民が口をそろえる。40年近い親交があったミルウォーキー・ジャーナル・センチネル紙のトム・ホードリコート記者(66)がアーロン氏を追悼し、スポニチ本紙に特別寄稿した。

 22日午前、アーロンの訃報が入ると、私は真っ先にバド・セリグ(前MLBコミッショナー)に電話した。2人は同じ1934年生まれで、親しい間柄だった。セリグは「私は彼こそが、私の年代で最高の野球選手だったと主張しているが、一人の人間としてはもっと素晴らしかった」と言った。アメリカは偉大な人物を失った。とても悲しい日だ。

 アーロンとの出会いは82年。私がブレーブス傘下の3Aリッチモンドで野球記者としてのキャリアをスタートさせた時、彼はブ軍のマイナーの育成部長だった。頻繁に3Aの球場に来たが、スーパースターなので観客席に座るわけにはいかず、たまたま記者席で私の隣に座ったのが始まり。後に私の妻になるトリッシュは、3AのアシスタントGMで、アーロンの仕事を手伝っていた。彼が私たちの仲を取り持ってくれたと言ってもいい。

 アーロンはベーブ・ルースの通算本塁打記録を抜くなど、当時、パワーヒッターの記録をことごとく塗り替えた。だがルースほど目立った存在にならなかった。それはミルウォーキーやアトランタのような地方都市でプレーしたからだろう。彼がプレーした60~70年代は「ゴールデンエージ(黄金期)」と呼ばれ、野球の社会的注目度が高かったが、脚光を浴びたのはニューヨークのスター、ウィリー・メイズやミッキー・マントルらだった。

 性格的にも、アーロンは慎み深く、物議を醸すような発言はしない。プレースタイルも派手ではなく、1メートル83、81キロと体も大きくなかった。ただ手首が強かった。バットスピードが並外れていたから本塁打を量産できた。

 そんな彼が全米の注目を集めたのは、74年にルースの本塁打記録に挑戦したとき。人種差別主義者から嫌がらせの手紙が届き、脅迫も相次いだ。でも、彼はそのことに憤慨したりすることはなく、黙々とプレーを続けた。彼はアメリカ社会における自分の役割をよく理解していた。公民権運動の中で、マーティン・ルーサー・キングやジャッキー・ロビンソンは声を上げ、社会を変えていったが、彼は静かに戦い続け、アフリカ系米国人の子供たちのお手本になった。

 アーロンは今年1月5日、多くの黒人がためらっているという新型コロナウイルスのワクチン接種をテレビカメラの前で受けた。「私が接種すれば、アフリカンアメリカンが心配することもなくなるだろう」と話した。本当に優しく、品格があり、人々のお手本だった。それがハンク・アーロンという男だ。 (ミルウォーキー・ジャーナル・センチネル紙記者)

 ◆トム・ホードリコート 1954年生まれ、バージニア州リッチモンド出身の66歳。バージニア大卒。リッチモンドの地方紙で野球記者となり、85年からミルウォーキー・ジャーナル・センチネル紙でブルワーズ担当。02年から2年間、ニューヨークでヤンキースを担当したが、再びミルウォーキーに戻り現在に至る。日本選手では野茂英雄、松井秀喜、青木宣親らを取材。

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