王貞治氏 アーロン氏悼む「選手のかがみ 全て凄かった」 同じ時代に生まれた2人の“キング”

[ 2021年1月24日 05:30 ]

74年11月、アーロン氏(右)と笑顔で握手する王氏
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 大リーグ歴代2位の755本塁打を放ったハンク・アーロン氏が22日(日本時間23日)に死去した。86歳だった。死因は非公表。アフリカ系米国人で人種差別と闘いながら74年にベーブ・ルースの不滅とされた通算714本塁打のメジャー記録を塗り替えた。日本との関わりも深く、868本塁打のプロ野球記録を持ち、アーロン氏と固い絆で結ばれた王貞治氏(80=現ソフトバンク球団会長)は球団を通じて追悼のコメントを寄せた。

 日米の野球ファンに愛されたレジェンドが天国に旅立った。メジャー歴代2位の通算755本塁打など華々しい記録を残す一方、人種差別とも闘ったアーロン氏。その激動の人生で切っても切り離せない盟友である王貞治氏が、球団会長を務めるソフトバンクを通じてコメントを発した。

 「755本という当時の世界記録を作り、ホームラン数もヒット数も打点も全てにおいて凄かった。長く現役でやって、凄くジェントルマンだったし、メジャーリーグの選手のかがみだった」

 74年にベーブ・ルースの当時のメジャー記録だった714本を抜いたアーロン氏は、同年オフに日米野球で来日。同氏の記録を追いかけて本塁打を量産していた巨人時代の王氏との本塁打競争は日本中を熱狂させた。米国では黒人が白人の記録を抜くことへの憎悪や脅迫が書かれた手紙が多く届いていた状況もあり、日本で熱烈な歓迎を受けたことを後年に「米国より日本の方が英雄扱いを受けた」と述懐している。王氏とも意気投合し終生の関係がスタートした。

 アーロン氏の名前に再び日本でスポットが当てられたのは77年。19年目の37歳だった王氏が後楽園球場で行われた9月3日のヤクルト戦の3回に右翼席に「世界新」となる756本目のアーチをかけた。電光掲示板には前年に42歳で現役を引退していたアーロン氏の祝福メッセージも。米メディアはメジャーに比べ狭い日本の球場を「箱庭」と表現するなど懐疑的な見方が多かった中、心からの祝福を受けた王氏は後に一本足の「フラミンゴ打法」にちなみフラミンゴの剥製も贈られた。

 王氏は40歳での引退まで世界ギネス記録にも認定される868本塁打を刻み、国民栄誉賞の受賞第1号にもなった。全てはプレーでも人間性でも目標とするアーロン氏の存在があったからこそだ。現役引退後は野球普及活動でタッグを組み、90年に世界少年野球大会を創設。「世界少年野球推進財団では彼はアメリカを、私は日本をということで一緒に世界に野球を広めようとスタートした」と懐かしむ。

 「とにかく素晴らしい野球人生だったと思う。いろいろとありがとうございました。ご冥福をお祈りします」と王氏。生きて再び会うことはできなくても、強い絆で結ばれている。

 ◆ハンク・アーロン 1934年2月5日生まれ、米アラバマ州出身。52年にブレーブスと契約。74年のドジャース戦で715号本塁打を放ち、ベーブ・ルースの記録を抜く。76年に現役を引退し、82年に米国野球殿堂入りした。通算3298試合、3771安打、755本塁打、メジャー歴代最多の2297打点。本塁打王を4回、打点王を4回、首位打者を2回獲得し、57年にはナ・リーグMVPに輝いた。

 ▽王貞治の756号本塁打 王は77年8月31日の大洋戦(後楽園)でアーロンに並ぶ通算755号を放つと、9月3日のヤクルト戦(同)の3回1死の第2打席でフルカウントから鈴木康二朗のシュートを右翼席に運び世界記録を樹立。当時の長嶋茂雄監督はファンへのお礼の意味を込め、王を一塁から右翼の守備に変更した。

 ▽王とアーロンの世紀の本塁打競争 日米野球が行われた74年の11月2日に後楽園球場で実現。フェアの打球を計20回打って争われ、10―9でアーロンが勝利した。借り物のバットで勝利する貫禄を見せたが「34歳の年齢から考えれば王は800本ぐらい打つ。私の全ての尊敬をささげたい」と称賛。ギャラはアーロンが5万ドル(約1500万円=当時)、王が2万ドル(約600万円)。

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