【内田雅也の追球】「野球ができる」喜び――戦後同様、コロナ後復興の活力に

[ 2020年5月27日 07:00 ]

戦後1946年のメンバー。12人がうつっている。後列中央が監督兼任の藤村富美男=阪神球団発行『タイガース30年史』より=
Photo By 提供写真

 藤村富美男は1945(昭和20)年8月15日を北九州・折尾で迎えた。近くの山中で国土防衛の陣地構築をしていた。7月は広島市内にいたため、「阪神では原爆にあったと思っていた」と藤村自身が『戦後プロ野球史発掘』(恒文社)の対談で語っている。

 終戦後、故郷の広島・呉に帰ると、進駐軍の雑役にかり出され、人間魚雷「回天」の解体をしていた。10月、日本野球連盟関西支局長・小島善平から「スグカエレ」と電報が届いた。

 <「また野球がやれる」という喜びで、体が震える思いだった>と南萬満が書いた評伝『真虎伝』(新評論)にある。プロ野球復活の東西対抗戦への出場要請だった。

 この<震えた>は相当な感激だったろうと想像がつく。戦中、仏印(今のベトナム)から華南(中国南部)へ行軍する際、谷に転落し左大腿(だいたい)部に重傷を負った。42年2月のシンガポール陥落後、ジャワ島への輸送船に乗船、魚雷攻撃を受け撃沈された。南の海を5時間も漂流し駆潜艇に救助された。まさに九死に一生を得て、野球選手として復帰できるのである。

 藤村は西宮・今津にあった合宿所(後の藤村自宅)でキャッチボールをやり、11月23日、神宮球場(接収中で名称はステートサイドパーク)での東西対抗戦に西軍3番二塁で出場。ランニング本塁打を放った。ホームラン賞はふかしたサツマイモ3個だった。「だれかに1個やって、あとは自分で食った。腹ぺこだったのでうまかったなあ」と南が書いている。食糧難のなか、それでも野球ができる喜びがあった。

 4月20日から今月24日まで『猛虎監督列伝』を連載した。お家騒動も黒幕の暗躍も権力者の横暴もあった。それでも、野球を愛していた(と信じたい)先人たちへの敬意を込めて書いた。やはり、歴史に学びたい。

 終戦から年が明けた46年、西宮球場(甲子園球場は接収)で正月大会があった。元日の初戦、阪神―近畿は戦後初の単独球団同士のプロ野球だ。ちなみに阪神が5―3で勝っている。

 阪神の投手は冨樫淳だった。平安中(現龍谷大平安高)エースとして42年、「幻の甲子園」と呼ばれた文部省主催の甲子園大会で準優勝。法大から学徒動員で従軍した。父親の球団代表・冨樫興一が選手集めに苦労し、次男を入団させたのだった。多くの選手は復員せず、また行方も分からなかった。46年当初は選手9人。冨樫ら3人の新人を加え、12人での再出発だった。

 そんな戦中戦後を思わずにはいられない。コロナ禍で幾度も延期された開幕が6月19日と決まった。阪神監督・矢野燿大は「野球がやれるのは当たり前じゃないとみんなが感じている」と語った。どの選手や関係者も喜びに満ちている。

 大切なのは今の喜びを忘れないことだ。その喜びは本物ならば、プレーににじみ出て、ファンにも伝わるだろう。

 戦後、川上哲治の赤バット、大下弘の青バットに多くの国民が夢を膨らませた。焦土のなか、プロ野球は希望にあふれていた。いま、コミッショナー・斉藤惇は「プロ野球開催は外出自粛などによる閉塞(へいそく)感に苦しんだ国民の皆様方を勇気づけられればいい」と語っている。「喜び」を力に換え“コロナ後復興”に向かう活力となりたい。 =敬称略=(編集委員)

続きを表示

2020年5月27日のニュース