長野移籍に見た“小林繁の矜持”

[ 2019年1月15日 09:00 ]

阪神でもエースとして活躍した小林繁
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 FAの人的補償で広島に行くことになった長野が巨人を去った元エースの存在を思い出させてくれた。怪物・江川卓獲得の代償として阪神に差し出された小林繁である。

 1979年1月31日、小林は宮崎キャンプに向かう羽田空港からハイヤーで都内のホテルに連れて行かれ、阪神へのトレードを通告された。巨人がボイコットした前年のドラフト会議で阪神が交渉権を獲得した江川との交換だった。時の金子鋭コミッショナーは球界分裂の危機を回避するため「強い要望」を出し、超法規的に江川がいったん阪神と契約してのトレードを認めたのだ。

 76年から2年連続18勝を挙げ、リーグ連覇に貢献したエース。まさかのトレード通告に「一両日考える時間がほしい」と訴えたが、球団は「今日中に決めてくれ」の一点張り。小林が東京・大手町の読売本社で記者会見に臨んだのは日付が2月1日に変わった午前0時18分だった。

 「阪神に請われて行くということは男冥利(みょうり)に尽きます。世間は“小林はかわいそう”と取ってくれるかもしれないけど、同情は買いたくない」

 売り出し中の明石家さんまがモノマネした独特なフォームのサイドスロー。細身ながら下半身のバネを生かして打者に立ち向かっていった昭和のエースの矜持(きょうじ)である。

 タテジマのユニホームを身にまとった細身のエースは鬼気迫る投球を続けた。22勝9敗、防御率2・89。初の最多勝、2度目の沢村賞に輝いた。巨人戦は3完封を含む8勝0敗。前年2位の古巣を5位に沈めた。

 40年後、思わぬ形で巨人を去ることになった長野は球団を通じて「3連覇している強い広島カープに選んでいただけたことは選手冥利に尽きます」とコメントした。平成の終わりに「選手冥利」が「男冥利」を掘り起こしてくれたのである。

 のちに「僕は江川と交換というより野球界を正常に戻すための身代わりだと思えば耐えられる」と話した小林。阪神で5年連続2桁勝利を続け、13勝を挙げた83年シーズン終了後、31歳の若さでユニホームを脱いだ。

 引退後も巨人に戻ることはなく、2009年日本ハムの2軍投手コーチに就任。1軍への昇格が決まっていた10年、キャンプインを2週間後に控えた1月17日、心筋梗塞で突然この世を去った。享年57。あと2日で9年になる。(永瀬郷太郎)=敬称略=

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2019年1月15日のニュース