【内田雅也の追球 ワイド版】WBC直前の大スクープ 日本人プロ野球選手第1号は…13人の侍だった

[ 2023年3月3日 08:00 ]

1906年、グリーン・ジャパニーズの広告カード(アメリカ野球殿堂博物館)
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 「Naito」とは何者なのか?日本人のプロ野球選手第1号は誰なのか?ノンフィクション作家、佐山和夫氏(86)が12年前、本紙に「公開捜査」を依頼した謎に回答があった。本紙読者の野球史研究家が寄せた情報は、野球の歴史に詳しい佐山氏も「超ど級」と驚く歴史的新事実だった。(編集委員・内田 雅也)

 沖縄でキャンプ取材中の2月中旬、野球殿堂博物館から電話があった。「Naitoが分かりましたよ」。驚いた。佐山和夫さんの依頼を受け、12年も前に書いた「公開捜査」の記事に反応があったという。

 突き止めたのは殿堂図書館に約50年通う常連で東京都北区の会社員、弘田正典さん(65)だった。「野球史研究家」である。
 Naitoとは1913年、大リーグに属さない独立系プロ球団オール・ネーションズでプレーしていた日本人である。日本人プロ野球選手第1号の可能性がある人物だった。

 答えは「内藤光次」だった。弘田さんはアメリカで発行されていた邦字紙『紐育新報』1913年4月19日付の「野球消息」という記事のなかに<シカゴの同胞野球家内藤光次君は今春もセミプロ組に加入して各地を旅行するそうだ>と見つけ、確信にいたった。

 人種差別の激しい当時、日本人が加入できる球団は事実上オール・ネーションズだけだった。「全民族」を意味する球団名の通り、白人、黒人、東洋人など人種の壁を破った画期的なチームだった。

 Naito捜査の本紙記事を読んでいた弘田さんは殿堂を通じ、連絡してくれたのだ。

 内藤光次の読み方は米国に残る旅行者名簿から「Koji Naito」とわかった。調べを進めると、1886(明治19)年1月16日、兵庫県神崎郡川辺村(今の同郡市川町)で父・卯三郎の長男として出生。幼稚舎から普通部、大学と慶応一筋で野球部、庭球部に所属していた。1904年に米国留学。12年4月、26歳でオール・ネーションズに入団していた。レフトで出場の記録がある。

 幼稚舎の同級生、三神八四郎の弟・吾朗(早大出)が後に同球団に入団していた。

 内藤は帰国後の29年、友人らとクロードネオン電気を創業。屋外広告製作のさきがけとなった会社だ。今の大阪クロード(本社=大阪・海老江)で、甲子園球場の大型ビジョンや通天閣のネオン広告などを手がけている。

 歴史的な発見、発掘と言えるが、弘田さんは「佐山さんが調査していた時代とはデジタル技術、インターネットが格段に進んでいますから」と控えめに話した。ただ、<内藤光次は「世界への扉」を堂々と開いた人でした。彼の知られざる一歩が、今に続く日本野球の歴史そのものだったのです>と自身のホームページ『高校野球百科事典』に記した。掲載は今年2月2日。同日は長年、研究している野球研究者、斎藤三郎(1895―1960年)の命日だった。

 斎藤は野球史研究の先駆者で、日本への野球伝来について今では定説の「明治5年説」を最初に唱えた人物だ。弘田さんは興味を覚え、著書で斎藤について記していた明治文化史研究家の横田順彌氏(2019年没)に連絡を取り、交流するようになった。
 オール・ネーションズの日本人選手について横田氏から「もっと古くに日本人がプロとしてプレーしていた可能性がある」と聞き、気になっていた。

 実は今回、Naitoを内藤光次と特定するよりも前に、米国での日本人プロ野球選手第1号を見つけていた。1906年、グリーン・ジャパニーズに日本人選手13人が所属していた。弁護士で野球好きの実業家、ガイ・W・グリーン氏がネブラスカ州リンカーンに設立。当時、米国では日露戦争や早大米国遠征などで日本への関心が高まり、ビジネスチャンスととらえた。

 日米両語の新聞・羅府新報にいた増子孝慈を雇い、ロサンゼルスや西海岸各地から日本人選手(19~24歳)13人を集めた。春から秋にかけて中西部を巡業し、143試合を戦っている。入場料25セント、平均観客数約400人で約1万2000ドル(現在の価値で約3600万円)の収入があったとみられる。

 弘田さんは「プロをどう規定するかによりますが、この13人が最初期の日本人プロ野球選手です」と話した。

 メンバーにいた藤田東洋(本名・藤咲一郎)は日系アメリカ人1世を代表する名選手だった。同時に演劇でも非凡さを見せ、1903年、ロサンゼルスでの日本人による初の芝居興行『忠臣蔵』に出演。『蛟龍(こうりゅう)を描く人』(1919年)など映画に多く出演したハリウッド俳優だった。主演で後にスター俳優となる早川雪洲の無名時代からの恩人だった。

 弘田さんによる一連の調査結果に12年前、情報提供を呼びかけていた佐山さんは「超ど級の情報」と最大限の賛辞を贈った。「1人では無理なことも何人かが協力し合えば、思いがけない結果を生むことを改めて知りました。深謝します」

 さらに「歴史的事実が分かって大発展です。こうなると、話はますます発展するものです。日本人とアメリカ野球の開祖的関係について、多くの話が出てくるでしょう」と今後にも期待を寄せた。

 歴史の海をさまよい森に分け入る野球史の発掘に弘田さんは「新たな発見があった時に喜びがある」と調査を続ける考えだ。「野球文化への理解が深まることを願っています」

 アメリカが舞台となるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)第5回大会の開幕が近づく。100年以上も昔、アメリカでのプロ野球に夢を膨らませた日本人の物語だった。=一部敬称略=


《佐山氏 本紙を通じて情報提供を依頼》
 佐山和夫氏は野茂英雄投手が大リーグデビューした1995年、米国各地で調査した内容を『「ジャップ・ミカド」の謎――米プロ野球日本人第一号を追う』(文藝春秋)として翌96年4月に出版していた。同書で1913年、「全民族」を意味する独立系プロ球団オール・ネーションズでプレーしていた通称「ジャップ・ミカド」を早大出身の三神吾朗と結論づけていた。

 だが、その後の調査で三神の渡米は13年8月19日とわかり、球団に所属するには時間がない。一方で当時の新聞で「Naito」がプレーしていたことが分かった。球団オーナーの長男と2010年に面会し「父は日本人は複数雇ったと話していた」と証言も得た。

 「Naito」の正体はつかめないままだった。「先に出した本は正しくないことになる」と佐山氏は誤りを認めたうえ「Naitoをご存じの方がいないか、世に問うてほしい」と本紙を通じて情報提供を依頼。2011年1月28日付紙面で掲載となった。

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