【復刻版 古賀稔彦の11日間】最終章 判定―震えた運命の瞬間

[ 2021年3月24日 14:33 ]

バルセロナ五輪の男子柔道で金メダルを獲得した71キロ級・古賀稔彦(左)と78キロ級・吉田秀彦がメダルを披露する
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 1992年バルセロナ五輪の柔道男子71キロ級・金メダリストで「平成の三四郎」と称された古賀稔彦さんが24日、亡くなったことが分かった。53歳だった。柔道ニッポンの重責を背負って世界と対峙してきた古賀さんには、忘れられない金メダルドラマがあった。バルセロナ五輪で現地入りした翌日の7月20日、78キロ級代表だった吉田秀彦との練習中に左膝に重傷を負った。日本選手団主将にも任命された金メダル候補を襲った不運。柔道私塾「講道学舎」の2年後輩にあたる吉田は責任を感じながら78キロ級で見事金メダル。そしてその翌日、古賀が運命の畳に上がった――。

 古賀「決勝は最後の最後まで、とにかく気力を出して闘志を出して、強気な姿勢で戦っていく、これはできた」

 序盤から古賀は前に出た。ポイントにならなかったが、一本背負い、小内刈りでハイトシュを崩した。しかし終盤、ハイトシュの大外刈りで膝から崩れた。ポイントはない。だが判定に響く可能性はあった。

 古賀「相手の足が、悪い方の膝に引っかかってしまって、耐えきれなくて膝をついてしまった。自分では結構大きなポイントかなと思ってしまって(コーチ席にいる)吉村先生を見たんです。『大丈夫だ、大丈夫だ』と言ってるんですけど、言ってる顔が大丈夫じゃないんですよ。これは大きなマイナスポイントだと」

 吉村の記憶では、その前に一本背負いに入った古賀が、技を返すようにして体を回された場面が印象に残っている。

 吉村「今だったらポイント取られてるだろう。ワーッと思ったよ」

 古賀「で、何とか取り返そうという気持ちで最後まで攻め込んで。残り4秒で時計が止まるんですけど、そこでも何とか投げようとしている自分がいましたから」

 勝負は判定に持ち込まれた。終了のブザーと同時にハイトシュは高々と両拳を上げた。その後も何度も拳を振り上げた。

 古賀「海外で試合をすると、こういう時って日本選手が負けちゃうんですよね。だからこれはまずいなあと。相手があまりに優勝をアピールするから、左斜め前にいた副審に向かって、自分も右拳を握ったんですよ。普段はやらないからガッツポーズはできない。それでも少し抵抗しておこうと思って」

 古賀の優勝は絶対に無理だと思っていた吉田は付き人をしていた。

 吉田「一戦一戦やるたびに希望が湧いてきて、でも、いつ負けちゃうのかなという不安も半分あって。決勝まで来て何が何でも優勝してもらいたいと思いました」

 祈った。

 吉田「あの時、初めて神様にお祈りしました。手を合わせて、天を仰いで、目をつぶって、赤、赤、赤って。人間って、切羽詰まった時は神頼みするんだなあと思いました。当時、外国人が審判だと僕らは判定では負けるという意識があったから、判定が出るまでがすごい長かった。古賀先輩も苦しかったけど、俺も苦しかった」

 古賀は最後の抵抗をしていた。

 古賀「本当に負けたと思ってましたから、判定の前は地獄のどん底で、えんま様に最後の判決を言い渡されるような気持ちでした。『おまえは負け』って。で、最後は自力しかないと思った。前にいる副審をグッと見ながら、俺に上げろと最後の抵抗をしました」

 目を閉じていた吉村が歓声を聞いて目を開けると、赤い旗が3本、上がっていた。古賀は雄叫びを上げていた。

 上村「数々の戦いを見てきて、勝ちには必ず勝因はあるし、負けには敗因があると思っていた。でも、稔彦が勝つ要因は一つもないんだよ。今でもよく覚えているよ。手帳に『神様が出たとしか言い様がない』と書いたことを。俺が見てきた中で一番、難解。解くこともできない」

 吉田「気がついたら古賀先輩と抱き合っていました。喜びというより、本当にほっとして。最初に古賀先輩がいった言葉が『ああ、これで日本に帰れるよ』です。あれは印象深かった」

 ソウル五輪で金1個と惨敗した日本選手は、米国亡命を考えるほど深く悩んだという。古賀も、その1人だった。

 吉田はこの後の記憶がほとんどない。古賀も。

 古賀「全審判が私の方に上げて、そっから記憶がないですね。一気に地獄から天国にいっちゃったんで」

 ガッツポーズも雄叫びも覚えていない。吉田が泣きながら駆けつけてきたところから記憶が戻る。その後、首に金メダルを掛けたとき以外はまた、記憶がほとんど途切れているという。

 上村「スター選手には意外性というのがあるんだろうな。物語を作ってしまう。吉田も参加者になってるんだな。稔彦にケガをさせてなかったら勝っていなかったかもしれん。そういう意味で、あの2つの金メダルはセットだな」

 吉田「どっちかの金メダルだけだったら、そんなに思い出にならなかったと思いますし、僕だけだったら、ここまで喜べなかった。やっぱり、2人で獲ったから意味があったんだなと。まあ、最後は古賀先輩においしいところは全部、持ってかれましたけどね」

 帰国後、検査に行った病院で胃の穴と十二指腸潰瘍が見つかった。

 古賀「知らず知らずのストレスはあったでしょうけど、空腹でしょう。固まったものを胃に入れてませんから、胃酸で荒れちゃったとかだと思いますけどね」

 古賀はそう振り返るがやはり、精神的な苦しみなしでは、「穴」はあり得なかっただろう。

 吉村「試合の日、帰りのタクシーの中できつかったろ?と聞いたんだ。そしたら『こういう時のために4年間やってきたから全然ですよ』と言うわけよ。大したもんやなあって言ったんだけど、そんなことなかったんやね。えらい苦しんでたんやなと」

 バルセロナのあの暑い11日間の最後に待っていた結末を、古賀はこう振り返る。

 「金か、負けか。あの瞬間ってのは、人生、なかなかない瞬間ですからね」
(おわり)

 ※  ※  ※

 古賀稔彦さんのご冥福をお祈りします。

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