古賀稔彦さん死去 バルセロナ五輪直前に負傷「棄権することは1%も考えなかった」

[ 2021年3月24日 12:50 ]

吉田秀彦(左)と乱取りをする古賀稔彦。この後、左ヒザの古傷を痛める(1992年7月20日)
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 「平成の三四郎」と称されたバルセロナ五輪の柔道男子71キロ級・金メダリストの古賀稔彦さんが24日、亡くなったことがわかった。53歳だった。92年バルセロナ五輪で左ひざに大けがを負いながらも同級金メダルを獲得。96年アトランタ五輪では78キロ級で銀メダルを獲得。現地で古賀さんを取材し、負傷した瞬間にも立ち会ったスポニチ本紙の大西純一記者が当時を振り返った。

 その瞬間のことは、鮮明に覚えている。1992年7月20日、バルセロナ五輪の開会式の数日前のことだった。男子柔道の稽古でひとりの選手が乱取りで投げられたときにその場にうずくまった。その回りを関係者が取り囲んでたちまち物々しい雰囲気になった。うずくまっていたのは71キロ級の古賀さんだった。練習を取材していた報道陣も大騒ぎとなった。カメラマンは一斉にシャッターを押し、テレビ局の記者は「速報だ、速報だ」と叫んだ。男子柔道で金メダル候補として期待されていたエースの故障はそれほど衝撃的なことだった。

 左膝の靱帯(じんたい)損傷の大ケガで、試合に出るのは難しいとみられていた。それでも必死に治療を続け、古賀さんは11日後の試合に痛み止めの注射を打って出場し、見事に金メダルに輝いた。「みんなの声援で頑張れた」と言っていたが、相当な痛みがあったはずだ。

 それから14年半後の2007年1月に古賀さんを取材したときのことだ。あのときのことを聞いてみた。「出場をあきらめようと思ったことはなかったですか」と水を向けると、古賀さんは「監督やコーチは僕がそう言ってくるのを覚悟していたみたい。でも僕にはそういう気持ちはまったくなかった。棄権することは1%も考えなかった」と間髪を入れずにきっぱりと返してきた。「だってオリンピックは4年に一度のチャンス。そのためにいろいろなことをやってきている。それだけの思い入れがあるし、普段からそういう努力をしている。あきらめる選択肢はなかった」と続けた。

 オリンピックは毎年開かれるのではなく、4年に一度の舞台だからこその重みがあることをそのとき教えられた。毎年開かれる大会の4倍、いやそれ以上の努力が必要だということだ。オリンピックの重みを古賀さんが教えてくれたと思っている。(92年バルセロナ五輪取材)

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2021年3月24日のニュース