二宮清純氏、古賀稔彦さんを悼む 名選手にして名伯楽、天才の“その先”が見たかった

[ 2021年3月24日 20:00 ]

1992年7月のバルセロナ五輪で、アクシデントにも負けず不屈の闘志で男子71キロ級金メダルを獲得した古賀稔彦さん
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 名選手、名伯楽に非ず――。スポーツの世界における常套句だ。24日、ガンにより53歳で他界した古賀稔彦さんは、不世出の名選手にして比類なき名伯楽だった。

 現役時代については説明の必要もあるまい。兄・元博から教わった代名詞の“立ち背負い”はカミソリのような切れ味を誇った。「柔道は相手の体の内に“入る”か“出る”かの二つだけ。僕にとって“入る”時は“投げる”時なんです」。感覚を重視する独特の物言いは、まさに「天才」のそれだった。

 柔道家としてのハイライトは、やはり92年バルセロナ五輪の金メダルだろう。講道学舎の後輩・吉田秀彦との乱取りで左ヒザの靭帯を痛めたのは、本番10日前。「バキッ!」という乾いた音が事の重大さを物語っていた。

 だが、ここから「天才」のドラマは始まる。準決勝でシュテファン・ドット(ドイツ)を一本背負いで投げつけた瞬間、会場からは「ブラボー!」の声が上がった。古賀さんによると、「ケガをしたことで“優勝したい”という思いが“これで優勝できる”という確信に変わった」という。「あれで邪心が全て取り払われたんですよ」。

 古賀さんは「妥協」という言葉を嫌った。忘れられないのが90年の全日本選手権。決勝の相手は95キロ超級・無差別級世界王者の小川直也。体重差、実に54キロ。足車で敗れた古賀さんに、「大健闘でしたが…」と水を向けると、顔色がサッと変わった。「柔道は武道とはいっても本質的には格闘技。戦場(いくさば)で“体重が軽いから死んでも仕方ない”と考えるような兵士はいませんよ。(小川に)引き手を取られた時、すぐに切ればよかった。妥協が入った瞬間に投げられた。僕が未熟なだけです」。

 武人のようなたたずまいは指導者になって一変した。本人いわく「選手あってのコーチです」。自らの経験を押しつけるのではなく、冷静に観察し、できるだけ簡潔に、そして的確に修正点を指摘した。教え子のひとりに04年アテネ、08年北京金メダリストの谷本歩実がいる。「もっと襟の高い位置をとれ」。釣り手、すなわち右手の位置を小指1本分上げろ、という指示だ。わずか1センチ。その1センチが彼女を変えた。「古賀さんは、今まで誰も気がつかなかった点を指摘してくれました」。

 感覚の言語化、そして数値化。時代を先取りしたコーチングに「天才」の進化形を見る思いがした。さらに、その先が見たかった。合掌。(スポーツライター) 

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