古賀さん訃報 恩師・吉村和郎氏も無念…今月3日に電話も「声が枯れて、変わっていて…」

[ 2021年3月24日 16:40 ]

1996年アトランタ五輪の決勝で、ブーラ(左)に敗れて金メダルを逃した古賀稔彦さん

 柔道私塾・講道学舎の指導者として古賀稔彦さん(享年53)の資質を見抜き、弦巻中―世田谷学園と手塩にかけて“平成の三四郎”と呼ばれる柔道家に育成したのは吉村和郎・元全日本柔道連盟選手強化委員長(69)。この日、同じ教え子の吉田秀彦(51)から受けた訃報に、無念の思いをつづった。

 驚いたよ。朝7時過ぎに(吉田)秀彦の電話で(古賀)稔彦の訃報を知った。きのう(23日)にも秀彦から電話をもらって「もうもたないかもしれません」と。秀彦はバルセロナ五輪のときに現地でお世話になった井上浄文というお坊さんを連れて、稔彦に会いにいったらしい。お坊さんの手を握り返したけど、言葉は出なかったと。まだ大丈夫だろうと思っていたら、一晩だった。

 最初は小さな癌だと聞いたのが昨年だったか。それが転移して、腹水まで抜くようになったと聞き、電話をかけた。「先生、大丈夫ですよ」と元気な声で応えてくれたのは夏だったように思う。オレも肝臓が悪く腹水を抜く時期があったことを知っていた稔彦は「ようやく先生の気持ちが分かりましたよ」なんて話もしていた。それがどんどん転移して悪くなった。

 今年の3月に入って、秀彦が「古賀先輩、やばいかもしれません」というから、電話したのは3月の2日だった。出なかったが、翌日の3日には電話に出た。声が枯れて、変わっていてなあ。とにかく頑張れというしかなかったが、医者から(痛みを緩和する)モルヒネを投与されていると聞いて、覚悟したよ。

 講道学舎に稔彦が入った2カ月後に、オレが指導者として入った。天性の背筋力で、間違いなく世界一になる柔道家だとすぐに確信した。92年バルセロナ五輪の優勝が強烈な印象を残したと思う。調整練習で絶不調だった秀彦が「古賀先輩と一本勝負をしたい」と言って稽古し、左ひざに怪我を負いながら優勝したやつだ。確かに、あの注射嫌いな男が「注射をお願いします」と言った試合の日に、執念で勝利したのだから、オレも「たいしたもんだ」と思ったよ。

 でも、一番印象に残っているのは96年アトランタ五輪の決勝(対ブーラ=フランス)だ。指導をリードした稔彦は、明らかに逃げ切る試合を「計算」していた。中学時代から一度たりとも逃げず、畳の上では攻め続けた男が、だよ。前日、秀彦が負けて「オレは勝つから」なんて強がったけど、本人なりに重圧を感じていたんだと思う。オレがセコンドについていたら絶対に「攻めろ」と指示した試合だ。支援団としてスタンドから見守っていたオレは、今もあいつにすまない思いを抱えている。

 周囲とうまくやろうなんて考えず「この人」と決めた人物にぐいぐい食い込んでくるような男。料理や掃除が好きなんて女性っぽいところもあった。これは指導者にするなら女子選手を教えさせるべきだと思ってた。アテネで谷本を金メダルに導いて、指導者としてもこれから日本を背負っていくべき男だと思っていたよ。思い出話は限りがない。ショックは当分癒えそうにないが、今は安らかに眠ってほしい。

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