「日の丸飛行隊」笠谷幸生さん、80歳で死去 虚血性心疾患 天国の仲間の元へ旅立った

[ 2024年4月27日 05:30 ]

 1972年札幌冬季五輪のスキー・ジャンプ70メートル級で表彰台を独占した(左から)2位の金野昭次さん、優勝した笠谷幸生さん、3位の青地清二さん=宮の森
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 1972年札幌冬季五輪スキー・ジャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で表彰台を独占した「日の丸飛行隊」の中心選手で、日本人初の冬季五輪金メダリストとなった笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが23日午前7時35分、虚血性心疾患のため札幌市の病院で死去した。80歳。北海道出身。葬儀は25日、近親者により行われた。喪主は妻則子(のりこ)さん。後日お別れの会を開く。

 28歳で迎えた札幌五輪は、兄の昌生コーチ(故人)が見守る前で、70メートル級の1回目に84メートルの最長不倒で首位に立ち、2回目を79メートルにまとめて完勝した。金野昭次が2位、青地清二(ともに故人)が3位と続き、日本中を沸かせた。

 明大1年時の64年インスブルック大会で冬季五輪初出場。ニッカウヰスキー入社後、70年世界選手権70メートル級で2位になるなど力強い踏み切りと空中や着地での美しい姿勢を武器に活躍した。欧州では、71~72年シーズンのジャンプ週間で3連勝しながら、札幌五輪に備えるため、当時誰も達成していなかった4戦全勝が懸かった最終戦を欠場して帰国したことでも知られる。

 4度目の76年インスブルック五輪を終えて引退し、社員を続ける傍らコーチとして後進を指導。98年長野五輪は飛型審判員を務めた。全日本スキー連盟や日本オリンピック委員会(JOC)の理事を歴任。2010年バンクーバー五輪は日本選手団副団長を担った。18年に文化功労者に選ばれた。

 笠谷 幸生(かさや・ゆきお) 1943年(昭18)8月17日生まれ、北海道余市郡大江村(現・仁木町)出身。余市高(現・余市紅志高)から進学した明大1年時の64年1月に全日本選手権を初制覇し、同年のインスブルック大会で冬季五輪初出場。72年札幌も含めて五輪は4大会連続出場した。76年の引退後はオーストリアに2年間留学。全日本スキー連盟のジャンプ部長などを歴任し、10年バンクーバー五輪では日本選手団副団長を務めた。

《原田氏が葛西が追悼》
 ○…笠谷さんの訃報を受け、関係者から悼む声が聞かれた。98年長野五輪の団体金メダリストで全日本スキー連盟の原田雅彦副会長は「私が途方に暮れた時も、力強く励ましてくれた」と感謝した。51歳の今も現役を続ける葛西紀明(土屋ホーム)は「私が生まれた年の札幌五輪で金メダルに輝かれた笠谷さんは子供の頃から憧れの存在」とコメント。10年バンクーバー五輪で日本選手団団長を務めた橋本聖子参院議員は副団長の笠谷さんに支えられた。「常に選手のことを思いながら、私がやりやすいようにサポートしてくれた」と悼んだ。

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