石垣島のシャイな少年だった大嶺―プロとして復活する姿見せてくれ

[ 2020年9月3日 09:00 ]

<ロ・西12>ZOZOマリンのマウンドに帰ってきた大嶺(撮影・長久保 豊)
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 もう14年も前のことになる。沖縄・石垣島まで、日帰りを含めて4度も出張に行った。担当していたロッテが06年ドラフト会議で、南の島から甲子園に出場した八重山商工・大嶺祐太を1位で指名したからだった。

 超校高級右腕とはいえども、離島の少年らしく、東京から押し寄せるメディアに対してシャイで控えめに感じた。「本当にプロでやれるのか心配」「精神面が弱いし、石垣島から都会に出るわけだし…」と、どこか自信なさそうだった。そんな印象が残っている。

 東京から石垣島まで何度も往復するのだから、自分は会社から大きな原稿を期待された。ずいぶんとプレッシャーをかけられたが、そんな中からできた紙面が「石垣島をマリーンズタウンに」という1面だった。

 当時の瀬戸山隆三球団代表が大嶺の指名あいさつのために石垣島を訪問。その途中で市営球場に寄ったことで、「石垣島でキャンプをやるなんてどうですか?」と思いつきで質問したところ、「候補の一つと書くぐらいならいいよ」とまさかの返答だった。

 06年はオーストラリアのジーロングで春季キャンプを行ったが、長時間移動や食事面などを考えると再考の余地は残されていた。とはいえ、これは原稿を必要としている記者へのリップサービスだと思っていた。それが08年春から本当にキャンプ地となってしまったのだから驚きだ。

 ロッテ担当は06年までだった。翌07年からは他球団の担当となった。だから、プロ野球選手となった大嶺とは、球場などで立ち話をすることはあっても、担当記者として取材し、記事にすることはなかった。

 ところが今年、14年ぶりのロッテ担当を任された。担当記者として石垣島を初めて訪れた。大嶺と再会できたのもうれしかったが、昨年1月に右肘手術を受けた右腕の背番号は「126」だった。自主トレ期間から「右肘の状態はいい」と聞いていたが、支配下登録されるには、結果を残すだけでなく、枠の兼ね合いも必要。個人的にはチャンスが巡ってきてくれることを願っていた。

 8月23日、ついに支配下登録された。そして9月1日の西武戦で1171日ぶりの1軍マウンドに先発として上がった。5回7失点と崩れたが、初回に150キロを計測するなど、復活を期待できる内容でもあった。

 大嶺は広報を通じて、「まずはリハビリに携わってくれた方々に感謝の気持ちでいっぱいです。ただ、チーム状態がいい中でこういう結果になり、申し訳ない」とコメントを残した。失礼ながら高校時代から比べると、ずいぶんと大人のコメントになったんだなと感心してしまった。

 試合は大敗。新聞記事はとても小さなものだったが、井口監督によると先発チャンスはもう一度あると言う。野球記者をやっていると、節目を取材した選手というのはどうしても気になるものだ。

 せっかく担当記者になったのだから、遠慮することなく大嶺が復活する姿を見てみたい。(記者コラム 横市 勇)

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2020年9月3日のニュース