【球春ヒストリー(1)】1974年・報徳学園 2投手の継投策で悲願の初優勝

[ 2020年3月20日 06:30 ]

初優勝を飾り、胴上げされる福島監督
Photo By スポニチ

 19日に開幕予定だった第92回選抜高校野球大会は新型コロナウイルス感染拡大の影響で大会史上初の中止となった。スポニチでは「選抜プレーバック 球春ヒストリー」と題し過去の選抜を振り返る。

 今春選抜から導入されることになっていた一投手における7日間で500球以内という球数制限。現在では複数投手制を敷くチームが増えたが、「昭和」の時代はエースが投げ抜くのが主流だった。そんな時代に、2投手による継投で春の頂点に立ったのが1974年の第46回大会で初優勝を飾った報徳学園。監督だった福島敦彦氏(79)が当時を振り返った。

 「同じくらいの力を持つ左右の投手がいたというだけ。力の差があればできないが、同じ力でタイプが違うなら(継投は)当然の策」

 安定した制球力で打たせて取るタイプの右腕・住谷正治と、落差あるカーブを武器に空振りを取れる左腕の東芳久。「新チームから東を先発させた記憶はほとんどない」というように相手打線に応じて先発を変えるのではなく、先発住谷―救援東の形を早い段階からとることで、互いの役割を認識させたことも結果的には奏功した。

 1回戦・鹿児島商戦は同点とされ、なおも2死満塁という厳しい状況でスイッチ。2回戦・土浦日大戦では1点リードの1死一、二塁で、準々決勝・銚子商戦は1点差に迫られた7回2死から継投策を選択した。池田との決勝では1点を先制した直後の7回、先頭に住谷が安打を許したところで交代する大胆采配もみせたが「(全試合、交代時期に関しては)躊躇(ちゅうちょ)することはなかった。自信をもってやった」という。

 住谷は全5試合に先発したが9回完投した平安戦でも105球。3月31日の1回戦から4月6日の決勝までちょうど7日間。合計球数は452球だった。

 学校がある兵庫県西宮市はほとんど雪は降らない。冬場には積雪のあるところを求めスキー合宿を行うなどチャレンジを続けた福島氏は「新しいもの好きなんや」と笑い、「野球漬けではダメ。違うスポーツをすることで、違った特長や適性も見えてくることがある」と話す。情報量が増えてトレーニング方法なども変わり技術、体力ともに格段の進歩を遂げる高校野球。「74年の報徳」は“今”を先取りするものだったのかもしれない。

 ○…福島氏は“先進的”な野球を展開した一方で、74年決勝前夜には相手の池田・蔦文也監督と宿舎近くの店で日付が変わるまで飲んだという。「蔦さんもお酒が好きなのは知っていた。ともに下馬評は高くなく、そろって決勝に行くとは思っていなかった。明日、頑張りましょうと生意気なことを言いにいったら一杯やりましょうということになった」。翌日の試合前に蔦監督の顔を見て「まだ赤くてふらふらしているように見えた。これは勝ったなと思った」と笑わせた。

 ◆福島 敦彦(ふくしま・あつひこ)1940年(昭15)12月15日生まれの79歳。報徳学園では遊撃手で主将だった3年夏に兵庫大会決勝で敗れ甲子園出場なし。慶大、鐘紡でプレーし72年秋に報徳学園監督に就任。73年から3年連続で選抜出場し74年に優勝を果たす。76年から慶大、82年から中山製鋼で、それぞれ監督を務めた。

続きを表示

この記事のフォト

「大谷翔平」特集記事

「始球式」特集記事

2020年3月20日のニュース