【センバツの記憶1979年・後編】「ドカベン香川とイケメン牛島」は「山田太郎と里中智」ではなかった

[ 2022年3月17日 17:10 ]

1979年、浪商のエース・牛島和彦を抱き上げて気勢を上げる「ドカベン」香川伸行
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 大正、昭和、平成、令和。時代を超えて春を彩ってきたセンバツ高校野球が18日に開幕する。1979年の第51回選抜高等学校野球大会。3日目の第2試合、大阪の古豪・浪商高校(現大体大浪商)は愛知高校と対戦した。8回、浪商の4番・香川伸行捕手は中堅左へ弾丸ライナーのホームランを打ち込んだ。1メートル70、95キロ。愛称は「ドカベン」。水島新司氏が1972年から週刊少年チャンピオン(秋田書店)で連載する野球漫画の主人公のニックネームだ。転がるようにダイヤモンドを回るユーモラス名姿で一躍人気者となった。準決勝ではセンバツ2号。イケメンエース・牛島和彦(スポニチ評論家)との黄金バッテリーで快進撃。強肩・強打で実力も兼ね備えた「漫画アイドル」は本家ドカベン同様、甲子園の決勝戦に進出した。夏の3試合連続ホームランへと続く「ドカベン香川」ストーリーは今も大甲子園に深く刻まれている。2014年2月、生前の香川氏が笑顔で語った「春の記憶」スポニチアーカイブスの再録をお楽しみください。(前編から続く)

~宿舎に野球ファン、チビっ子、女子中、高校生がドドッ~

 衝撃のホームランで全国に名を轟(とどろ)かせた「ドカベン香川」。イケメンエース牛島とともに人気が沸騰した。

 「どこに行っても“ドカベンや、ドカベンや”といわれるし、とんでもない騒ぎになった」

 大会期間中、浪商はJR甲子園口駅近くの旅館で合宿をしていた。1回戦が終わると、香川目当ての野球ファンとチビっ子、牛島目当ての女子中学生、高校生が連日宿舎を取り囲んだ。

 「朝の4時、5時まで旅館の前に女の子がおるのやから。この子らいったい何しとんのやと。分からんかった」

 2回戦は6日後、相手は前年夏の準優勝校・高知商。ドカベン人気はすさまじく平日の第1試合ながらスタンドは4万人近い観衆で埋まった。高知商のエースは大会NO・1左腕の呼び声が高い森浩二。(後に阪急)香川との対戦は「夢の対決」と称された。制したのは香川。初回1死一、三塁。森の初球を叩いた打球は右翼へ一直線。三塁走者を迎え入れる先制犠飛となった。結局スター対決は3打数1安打1打点だったが、この試合の主役はもう一人のスター牛島だった。強打の高知商相手に6安打8奪三振。9回失策で1点差に迫られたが自責0。存在感を示している。

~2人そろって「試合以外では口きいた記憶はない」~

 お立ち台では仲良く並んで記念撮影に応じる黄金バッテリーだが、およそ“親友”とは呼べない関係だった。漫画「ドカベン」では主人公・山田太郎と1年生からバッテリーを組み、後に義理の兄弟ともなる里中智との友情物語が読者を引きつけた。だが現実の浪商バッテリーはむきだしのライバル心が火花を散らしていた。試合以外の投球練習で牛島のボールを香川が受けたことは1度もない。2人そろって「試合以外では口きいた記憶はない」ともいう。付属中学からエスカレーター組の香川と外部から入学した牛島。1学年150人という部員の中でグループも違った。

 「仲が悪いという表現は合うてへんと思うけど口きいた覚えがホンマにない。お互いに一番になりたいわけ。だから競い合う。ピッチャーが背番号1でキャッチャーは2番。向こうはひのき舞台に立ってるけど、こっちはマスク被っている。いつも2番目なんですよ。向こうはドラフト1位でこっちは2位。気持ちの中でその差は縮めたかったし、お互いに一番になりたかった。チームの中で一番になったら全国で一番になる。そう思うとった」

 それでも1年生時からレギュラーとして「同じボールで会話してきた仲」である。プレーボールがかかれば2人のベクトルは「勝利」へ向かう。

 「チーム全体がそうやったからね。練習なんかバラバラやったけど、試合になったら“おう勝とうや”と。お互いに“あいつには負けれんぞ”というライバル心があった」

 準々決勝は死闘となった。相手は川之江(愛媛)エース鍋島博は2回戦で前橋工(群馬)を完封していた。1点を追う浪商は7回2死満塁から押し出しで同点とすると香川の中前適時打で勝ち越した。8回失策で同点とされ延長戦へ。牛島が粘る。10回から4イニングを無安打に抑えきり13回サヨナラ勝ち。魂の221球。4強をつかみとった。

 準決勝、東洋大姫路(兵庫)戦。4万4000人の大観衆が沸いた。1点を追う2回。「ドカベンコール」の中、香川が打席に向かう。2球目のカーブを左翼へ甲子園2号。5打数3安打の猛打賞。浪華商として優勝した55年以来、24年ぶりのセンバツ決勝進出を決めた。

~「歩かせろ」の伝令に「黙って見ておけって言ってこい」~

 決勝戦は秋の近畿大会でコールド勝ちしていた箕島(和歌山)が相手だった。

 「いけそうな感じはなかった。一生懸命やるだけやと。ウシもバテが来とった」

 準決勝の東洋大姫路戦も完投した牛島だったが、延長13回221球を投げた川之江戦のダメージは甚大だった。組み合わせにも恵まれていなかった。2回戦が初戦の箕島は決勝が4試合目だったのに対し、浪商は5試合目。さらに牛島は2回戦から4連投を強いられることになった。

 1979年4月7日、センバツ決勝戦。口火を切ったのはドカベン香川だった。初回、箕島・石井毅(現名 木村竹志=元西武)から中前適時打。先制した。だがその裏、簡単に同点とされる。牛島の球威が衰えていることはマスク越しに感じ取っていた。壮絶な打ち合い。1点を追う7回、浪商は同点とした直後、香川の会心の右翼線二塁打で再び勝ち越した。だがその裏再逆転…。

 1点差の8回浪商は2死二塁のピンチを招き打席に箕島の4番・北野敏史を迎えた。第4打席に同点弾を放っていた北野はこの打席センバツ史上初のサイクル安打に王手をかけていた。残されていたのは「二塁打」。浪商・広瀬監督はマウンドに伝令を送った。

 「歩かせろ」

 牛島は伝令の選手が縮こまるほどの大声で怒鳴った。

 「投げてんのはオレや。黙って見ておけって言ってこい!」

 マウンドに集まっていたナインもうなずいた。香川はこの瞬間を鮮明に記憶していた。

 「ウシが“勝負したい”と。だから伝令に来たやつに“監督に言うとってくれ。勝負するから”といった。ただウチの監督のすごさはそれに対して一言もいわなかった。試合終わってもね」

 結果は北野に右中間を割られ決定的な追加点を奪われた。北野は三塁でタッチアウトとなったが記録は「二塁打」。サイクル安打を達成した。劇画に現実は追いつけなかった。浪商の主将・ドカベン香川が紫紺の大旗をつかむことはなかった。それでも甲子園は貴重な贈り物をくれた。

 「負けて整列するじゃないですか。その時に誰彼なしに“オイ、もう一回ここに帰ってこようぜ”っていうたんです。その時にこのチーム変わったなと。もう一回練習してここに帰って来ようと。プレーが成長したんじゃなくて心がセンバツで成長した。あれで勝っとったら何やこんなもんやと、夏は戻ってこれなかったと思う」

~南海でも引退後も野球ファンに愛され続けた「ドカベン」~

 浪商は同年夏、18年ぶりの夏の甲子園に出場した。初戦から牛島の劇的な9回2死からの同点弾などで延長勝利。香川は3試合連続アーチで全国のファンを引きつけた。準決勝で池田(徳島)に敗退。深紅の大旗にも手が届かなかった。

 南海ドラフト2位でプロ入り。引退後も「ドカベン」と呼ばれ続け野球ファンに愛された。

 2014年2月、インタビューの終わりに口にしたのは“恩人”への感謝の言葉だった。

 「水島先生が最初ウチにいらしたとき、先生はボクがホンマにプロに行くとは思ってなかったんやないですか。先生には本当にお世話になったし、感謝しています」

 「ドカベン香川」と「山田太郎」。現実と劇画の世界でヒーローたちが輝いたセンバツの春がまた来る。

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