【センバツの記憶1998年・前編】「平成の怪物」松坂大輔3年春 初聖地で甲子園史上初150キロの衝撃

[ 2022年3月17日 18:00 ]

<横浜・報徳学園>2回には高校野球史上最速(当時)の150キロをマーク。速球を武器に、8回6安打8奪三振2失点で勝利投手となった横浜先発の松坂大輔
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 大正、昭和、平成、令和。時代を超えて春を彩ってきたセンバツ高校野球が18日に開幕する。1998年の第70回記念選抜高等学校野球大会。「平成の怪物」が甲子園に出現した。3月28日、大会3日目の第1試合。神奈川・横浜高のエース松坂大輔(後に西武など)が兵庫・報徳学園との2回戦の2回に投じた剛速球。プロ球団スカウトのスピードガンは「150」を表示した。春夏の甲子園で初めて記録された大台。高校野球史に刻まれる1球となった。松坂は、あの江川卓(作新学院=元巨人)と同じく超高校級と注目されながら甲子園デビューはこの3年生の春だった。「平成の怪物」も「昭和の怪物」同様、全国の野球ファンをあっという間に虜にした。報徳を撃破すると、東福岡(福岡)郡山(奈良)を連続完封し、準決勝に進出した。相手は西の横綱・PL学園(大阪)。桑田真澄、清原和博らを育てた名伯楽・中村順司監督の勇退が内定。優勝が至上命題だった名門との死闘となった。2点をリードされる苦しい展開も終盤同点、決勝スクイズで接戦を制し、王手をかけた。決勝では久保康友(後にロッテなど)擁する関大一(大阪)を完封。一気に春の頂点へ駆け上がった。同年夏の対PL延長17回激闘、ノーヒットノーランの春夏連覇へと続く「松坂伝説」の第1章…。

~遠かった甲子園 あの「怪物・江川」と同じ3年春に初聖地~

 第70回選抜高校野球開幕から3日目。桜はまだ三分咲き。甲子園には肌寒い風が吹いていた。第1試合は横浜―報徳学園。ともに春夏1度ずつの優勝(当時)を誇る強豪の対戦だった。半分も埋まっていないスタンド。だが12球団のスカウトが集まるネット裏だけは違っていた。

 マウンドには松坂大輔がいた。2回、報徳の5番・鞘師智也への4球目。松坂の指を離れた剛速球がうなりとあげる。巨人スカウトが手にしているスピードガンのデジタル表示は「150」。「スピードガンが定着する1980年以降」との“但し書き”がつくとはいえ高校球児が甲子園で150キロの大台を突破したのは初めてのことだった。野球少年の面影を残した17歳の凄さはネット裏からあっという間にスタンドまで広まっていった。「平成の怪物」が世に出た瞬間だった。

 入学時からその素質を注目されていた松坂にとって甲子園は「届かない場所」だった。1年生の春からエースでありながら、96年秋は神奈川県大会準決勝で東海大相模に3回途中、3安打6四球KO。センバツへの道を断たれた。翌97年夏、横浜は後にプロ入りする後藤武敏(元西武など)、小山良男(元中日)らがレギュラーに成長し「本命」といわれた。準々決勝で宿敵・東海大相模を撃破。準決勝で横浜商と対戦した。1点リードで迎えた9回、同点とされなおも1死一、三塁。松坂の投じた134球目は捕手のミットを弾いて…。まさかのサヨナラ暴投だった。

 あの江川卓(作新学院)も高校入学時から注目されながら甲子園が遠かった。1年生夏の栃木大会準々決勝で完全試合を達成したが、準決勝で敗退。秋の関東大会では頭部死球を受け、翌春センバツへの出場はかなわなかった。72年夏の栃木大会は3試合連続ノーヒットノーラン(1試合は完全試合)。迎えた準決勝・小山戦も延長10回2死までノーヒットノーランの力投も延長11回サヨナラスクイズで敗戦。「昭和の怪物」が全国の野球ファンの前に出現したのは3年時の春センバツだった。

~2失点初勝利も自信「負ける気はしなかった」~

 プロアマ問わず野球関係者の間で「松坂」の名前を知らないものはいなかったが、全国の野球ファンの間で知名度は低かった。江川と同じく3年春でようやくたどりついた聖地。そのデビュー戦で150キロの大台超え。全国にその名は響き渡った。6安打2失点、8奪三振。報徳に快勝。初めての校歌を聴く新怪物の目は「紫紺の頂」だけを見ていた。

 「過信していた部分もありますけど、負ける気はしなかったですね。調子が悪い時に試合が危ないとか、そういう感触があったらもっと危機感もあったとは思います。自分一人では勝てないとは思っていましたし、渡辺(元智)監督に油断しないようにと言われていたので、そう思っていた部分はありましたけど、自分がしっかりしていたら(大丈夫)とも思っていた」

 4月3日の3回戦、東福岡戦。1回表、先頭の2年生一番・田中賢介(後に日本ハム)には中前に運ばれたがまったく動じない。中盤まで0―0の展開も6回1死一塁、自ら東福岡のエース村田修一(後に横浜など)から左翼フェンス上部の金網を直撃する先制二塁打。7回の3者連続三振を含む13奪三振で宣言通りの完封勝利を収めた。盤石の勝利と思えるが、松坂は一人の選手から危険な匂いを嗅ぎ取っていた。4打数ノーヒット、2三振に抑えた3番打者だった。

 「センバツの時に違うな、と思ったのは村田。こいつはスイングが違う。他の選手と振りの速さが全然違う。こいつだけはミスしたらいかれる、そういう感じでしたね」

~準々決勝完封「PLも勝ってうれしかった」~

 準々決勝は変化球中心。わずか7奪三振の完封勝利だった。松坂は目前の敵・郡山(奈良)とは違うものを見ていた。

 「PLが勝ったと聞くだけで、“もう少しで当たれる”と思っていた。お互い勝っていけば準決勝で対戦できるのは知っていたので。“PLも勝った…”。そんな感じでしたね。内心はうれしくてうれしくて仕方がなかった」

 松坂にとってPLは特別なチームだった。清原和博らが3年生で優勝した1985年はまだ5歳だったが、立浪和義(元中日)らが春夏連覇を成し遂げた87年は小学生。物心ついたころからPLは高校野球の象徴だった。前年秋の近畿大会は8強止まりだったが、伝統の底力を誇る「最強PL」には畏怖の念を抱いていた。

 PLにとっても横浜との準決勝は特別な試合だった。この春を最後に中村順司監督の退任が決まっていた。80年監督に就任し、翌81年と82年春を連覇。83、85年はKKで夏制覇。87年の春夏連覇など輝かしい戦歴。吉村禎章(元巨人)KKコンビ、立浪に加え松井稼頭央(元西武)らも育て上げた名伯楽だ。準々決勝まで甲子園歴代最多の通算58勝(当時)V候補・横浜を撃破、決勝も制して60勝まで記録を伸ばして胴上げで送り出すのがPLナインの夢だった。

 「昭和の怪物」江川卓は試合巧者・広島商に敗れセンバツ準決勝の壁を越えられなかった。「平成の怪物」の前には最強PL学園が立ちはだかった。気持ちは高ぶった。

 「センバツが決まった後ずっとPLとやりたいと思っていた。PLという名前がやっぱり自分を奮い立たせたのだと思う。PL学園との試合前が一番、わざと意識していない振る舞いをしていたと思う」(後編に続く)

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