【センバツの記憶1978年・前編】小さな無名右腕が春夏史上初となる完全試合!前橋・松本稔の78球

[ 2022年3月17日 16:00 ]

1978年、第50回センバツの対比叡山戦で史上初の完全試合を達成した前橋高・松本稔
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 大正、昭和、平成、令和。時代を超えて春を彩ってきたセンバツ高校野球が18日に開幕する。43年前、身長170センチにも満たない球児が奇跡を起こした。1978年(昭和53)の第50回大会で前橋(群馬)の松本稔投手が1回戦で対戦した比叡山(滋賀)相手に春夏通じて史上初の完全試合を達成。球数わずか78球。一人の走者も許さない快挙はどうして誕生したのか。前・後編にわたり松本氏の証言を元に振り返った。

~1メートル68小柄な無名エースがつかんだセンバツ初出場~

 白いユニホームの胸に「MAEBASHI」の文字。群馬屈指の進学校・前橋が甲子園の歴史に偉大な1ページを記したのが1978年3月30日。大会4日目第3試合。観衆は4万人。前橋はセンバツ初出場でレギュラーの中で高野昇捕手が1メートル74で最長身。松本投手は1メートル68と小柄で、前年の秋季関東大会準優勝でも、さほど注目されるチームではなかった。

 どちらかといえば、文武両道 の“文”の方が注目された。大会2日目に登場する岐阜、前橋の前の試合で帝京と対戦する小倉(福岡)と並んで進学校という要素が多かった。

 「小柄で目立たない選手ばかりでした。出場校の中で一番弱いと思っていましたし、抽選会で比叡山との対戦が決まり、近畿大会ベスト8ぐらいなので出場校の中では戦いやすいかなと思ったぐらいでした」

 前橋が甲子園出場を決めた道のりを辿ってみよう。2年前の秋季関東大会(開催地・山梨)では県1位しか出場できず、群馬で優勝した前橋は初戦で神奈川1位の東海大相模と対戦。「1つ勝てば甲子園に行けるかなというチャンスでしたけど初戦敗退で、僕は外野で出場していました」。そして2年になって迎えた秋の関東大会。群馬決勝で桐生に敗れたものの、この年から1県2校に関東大会の出場権が与えられることになった。しかも会場は地元・群馬。プラス材料は揃っていた。すでにエースで4番という大黒柱に成長していた松本投手は、初戦の千葉敬愛(千葉2位)をコールドで下し、2回戦の相手は前年敗れた東海大相模(神奈川1位)「学校の応援もたくさん来てくれて心強かったですよ。今回は負けられないという気持ちが強かった」と振り返る。そして「相模に勝てば、次の準決勝の日は校内マラソン大会。勝てばマラソンしなくていいじゃん!」とプラス思考に拍車がかかった。

 東海大相模を2点に抑えてマラソン大会を“回避”。準決勝の川口工(埼玉1位)にも快勝して決勝に進出。印旛(千葉1位)に零敗したが、堂々の準優勝。同じ群馬の桐生も印旛に準決勝で惜敗したため、関東出場枠3のうち群馬2校が甲子園切符をつかむことができた。

 「まさしくこれしか群馬2校が出る方法はないですよね。関東7県で争ってたった3校。群馬2位のウチが準決勝で負け、桐生が仮に決勝に行っても地域性でウチは選ばれなかったかもしれません」

~1回戦の相手は比叡山 サンデー毎日増刊号で情報収集~

 翌年センバツ出場の吉報が届き甲子園が現実のものとなった。当時は今のように情報はほとんどなく、抽選で比叡山に決まってもセンバツのサンデー毎日臨時増刊号を見て、投手が右か左かなどわずかな情報で試合に臨んでいた。大会が近づき前橋から大阪へ移動。ある日、PL学園のグラウンドを借りられることになった。「PLのグラウンドは甲子園と同じ広さに造ってあると聞いていたし、PLランドに泊まって楽しみにしていたんです。そうしたら直前になって貸せないとなって。多分、同じ甲子園に出ているチームだから対戦するかもしれないと思ったんでしょう。室内練習場を借りてやったんです」

 室内のブルペンで投球練習。それほど調子はよくなかったが、大会が近づいても一向に上がってこない。

 「いやになりました。真っ直ぐは走らないし、カーブも曲がらない。こりゃあダメだと。この調子では勝てるわけがない。ここで無欲というか、欲がなくなりました」

 もう一つ、大会前に行われる甲子園練習。わずか30分の割り当て練習だが、松本氏にとっては大きな“発見”があった。「以前、テレビで甲子園大会を見ていたらアルプス席がグラウンドを圧倒するように高く急傾斜でそびえていて、プレッシャーかかるなと思ってました。実際、グラウンドに出てアルプス席を見たら傾斜も急でもないし、こんなもんかと。これならマウンドで集中できると安心しました」

 完全試合を達成できた要因は「平常心と無欲」といったが、不調とアルプス席の安心感が冷静な投球につながったのだろう。しかも大会2日前の練習で「どうしようもないから腕を5センチぐらい下げてみたんです。そうしたらボールがピュンと行きだして。本来のボールが行き始めたんです」

 聖地のマウンドに立つ。その時が来た。

~1番から9番までオール右打者 初回内野ゴロ3つ~

 大会4日目は第1試合で箕島(和歌山)が黒沢尻工(岩手)を1―0。第2試合は小倉が帝京に3―0と快勝、完封試合が続いた。そして迎えた第3試合。比叡山は1番から9番まで全て右打者を並べていた。「右打者のアウトコースのコントロールには自信を持っていました」と松本氏。外角中心にストレート、カーブを交えながら投球を組み立てた。初回は遊ゴロ、三ゴロと2つ。投球も低めに決まり7球で3つのアウトを取った。その裏、4番打者・松本が面食らう。チャンスで空振りの三振。それも見たことのないボールにバットが空を切った。

 「フォークボールを投げてきたんです。フォークなんてみたことがなかったですから。新チームになってこの日まで三振は県の決勝で桐生の木暮のスライダーに手が出ず三振した1個だけ。40試合くらいしてです。これはなかなか点が取れないなと思いました」

 そう感じ取ったエースは2回からさらに気合いを入れた。6番・堀にフルカウントまで粘られたが投ゴロに仕留める。9イニングで最も多い14球を要したが、打たせて取る投球は精密機械のようにコースに決まった。

 3回は12球。この回初めて右翼に打球が飛んだ。9人を終え、内野ゴロ7、外野飛球1、三振1。全く危なげない投球だが、前橋も点が奪えない。4回も7球で3者凡退に仕留め、その裏前橋にチャンスが巡ってきた。無死一、二塁から5番・佐久間秀人が三塁強襲のタイムリー。待望の先制点が入った。

~ノーヒットノーランは知っていたけど…完全試合って?~

 5回は4番からの打順ながら三ゴロ、三振、三振と10球で終わり一人の走者も許さない。当の松本氏はどんな気持ちで投げていたのか。

 「もちろん走者を許していないのは知っていました。1点取れて、これは勝てるかも知れないと思って投げていました。当時、完全試合なんて“市民権”を得てなかったでしょ?ノーヒットノーランだなあと」

 平常心と無欲。勝てるかもという“欲”は出てきたものの、丁寧な投球は後半も続いた。6回をたった7球で終えると、甲子園の雰囲気が変わってくる。観衆にも緊張感が漂ってきた。

 「ベンチでも完全の話や一人も走者が出てないぞ、なんて口にしなかった。あえていわなかったのか、僕の耳には入ってこなかったですね」

 いつも通り淡々と投げる松本氏をバックが盛り立てる。7回、中林の強いゴロも二塁・田口淳彦ががっちりさばく。実は守備に不安があった。「田口はあまり守備はうまくなかった(笑い)おまけに前橋のグラウンドは小石が転がっていたり、イレギュラーするからポロポロするんです。でもこの試合は体でゴロを止める感じでアウトにしてくれる。甲子園の土は細かくて整備が素晴らしい。だからイレギュラーの心配がないから、腰を落として止めればいいと守った感じでした」

 攻守にも助けられ、試合は終盤にさしかかる。松本氏は比叡山の早打ちに気づいていた。「多分ベンチの指示でしょうけど、ストライクはどんどん打ってくる感じでした。それに助けられたというのはありました」。8回も6球で3者凡退。いよいよ史上初の完全試合まで残り1イニングとなった。(後編に続く)

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