【センバツの記憶1973年・前編】相手打者がかすっただけで甲子園がどよめいた「昭和の怪物」江川卓

[ 2022年3月17日 21:00 ]

1973年3月27日、北陽との初戦で甲子園を、全国の高校野球ファンをうならせた作新学院エース江川卓
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 大正、昭和、平成、令和。時代を超えて春を彩ってきたセンバツ高校野球が18日に開幕する。バットにかすっただけで――。高校球児の聖地に衝撃が走ったのは1973年(昭48)3月27日、第45回選抜高校野球大会初日、開会式直後の第1試合だった。作新学院(栃木)のエース、江川卓は出場30校中最高のチーム打率・336を誇る優勝候補の北陽(大阪、現関大北陽)を相手に「怪物」のベールを脱いだ。打者の手元で浮き上がる快速球。振っても振ってもバットは空を切る。初回3者三振。初めてバットに当てたのは2回1死から。5番打者だった。この試合23球目。振り遅れのファウルでスタンドがドッと沸いた。驚がくの甲子園デビュー。江川氏自身の証言を織り込みながら振り返る。

~1回戦北陽戦 史上最も沸いた開幕試合~

 9時に開会式がスタート。天地真理のヒット曲「虹をわたって」のリズムに乗って出場30校の選手が入場行進を終えると国旗、大会旗掲揚、優勝旗と優勝杯の返還、大会会長あいさつ…。怪物ははやる気持ちを必死に抑えていた。

 主催者発表5万5000人の大観衆。平日の火曜日というのに早朝5時ごろから長蛇の列ができはじめ、6時50分に開門。7時10分に特別席、アルプス席が埋まり、8時30分には満員札止めとなった。
 まだ見ぬ「怪物」が開会式直後の第1試合、しかも優勝候補の呼び声高い地元の北陽高(大阪)相手にベールを脱ぐ。甲子園がヒートアップする条件はそろっていた。

 江川氏「鮮明に覚えているのは開会式で1時間ずっと立ってて足がしびれたこと。辛かった。その後にゲームがあるのに…。凄く長かった。早く試合をやりたかった」

 公式練習で初めて甲子園のグラウンドに足を踏み入れた時、報道陣には「思ったほど広くないですね」と言い放ったが「本当はもの凄く大きかったけど“大きい”と言ったら新聞に出る。びびってるように思われたくなかった」。高校生らしい見栄を張ったのだ。

 だが、10時になってプレーボールがかかると本領を遺憾なく発揮する。ググッと伸びる速球で初回先頭打者から5者連続三振。振り回してくる北陽打線のバットは当たるどころかかすりもしなかった。

 江川氏「調子はよかったんでしょうね。センバツに行くまで十分に調整できたから。それに甲子園のマウンドは投げやすかった。今のようにぽっこりしてなく、傾斜がなだらかで大好きだった。地方の球場にはない外野スタンドにはびっくりしたけど、試合が始まると目の前のバッターに集中するから凄い歓声には聞こえなかった」

~2死三塁 北陽が決死のホームスチールも失敗~

 怪物の投球を初めてバットに当てたのはエースで5番の有田だった。2回1死。この試合の23球目。完全に振り遅れたファウルだったが、超満員のスタンドは大きなどよめきに包まれた。

 球場全体に異様な雰囲気が漂う中、この打席の有田は三振に終わったが、1本のファウルで何かが動いた。続く6番の杉坂が四球を選ぶ。これで完全試合が消えた。3回にも2死から冠野が四球で出塁したが、4回2死までアウトは全て三振によるものだった。

 誰もがノーヒットノーランをイメージし始めたころ、その夢を打ち砕いたのはまたも有田のバットだった。速球を捉え、ライナーで右翼手の頭を越える三塁打である。

 江川氏「ファウルでざわついたのは覚えてる。同じ有田だったんだね。三塁打は凄くいい当たりでびっくりした。あんな打球打たれたことなかったから。三塁打なんて高校時代、あと1本打たれたかどうか」

 2死三塁。初めてのチャンスを迎えた北陽ベンチは連打は難しいと判断し、ホームスチールを敢行。有田は本塁寸前タッチアウトになる。三振以外のアウトは初めてだった。

 江川氏「あるスポーツ紙の記者から“関東では通用しても全国ではそうはいかないぞ”と言われて、そういうもんなんだなと思っていたけど、1回の3者三振でいけるかなと思った。全国最高の高校でも、もしかしたら勝てるかも、いけるかもしれないなというのが正しい感想かな」

 2回に1点を先制してもらい、6回にはもう1点入った。奪った三振は初回から3、3、3、2、2、2。ここまで15を数えた。63年の第35回大会で戸田善紀(PL学園)が首里高(沖縄)戦でつくった21奪三振の大会記録を上回るペースである。ところが、リードが広がった途端に7回は1。8回は0と毎回三振も途切れた。

~“4戦連続ノーヒッター”でも 長かった甲子園への道のり~
 
 長い道のりだった。高校球児は1年夏から3年夏まで甲子園に出るチャンスが5回ある。荒木大輔(早実)や清原和博、桑田真澄(PL学園)は全てものにしたが、江川は3度もあと一歩のところで逃し続けてきた。

 1年夏は栃木大会準々決勝の烏山高戦で栃木県高校野球史上初の完全試合を達成。勝てば北関東大会に進める準決勝の宇都宮商戦も7回まで無失点に抑えていた。ところが、3―0で迎えた8回に味方守備の乱れもあって同点とされ、延長11回に先頭打者を歩かせたところで降板。後続の投手が打たれて3―5で敗れた。

 1年秋の関東大会は栃木県予選1回戦で足利工を相手にノーヒットノーランを達成。決勝も宇都宮商を3安打完封で下した。本大会1回戦の前橋工(群馬)戦。初回に先制の左前適時打を放ち、投げては初回2死から4回まで10者連続三振を奪っていた。ところが…。5回の打席で相手投手の投球を左側頭部に受けて昏倒。耳から血を流し、救急車で病院に搬送された。試合は後続の投手が打たれ、逆転負けを喫するのだ。これで2年のセンバツは消えた。

 悲運はさらに続く。2年夏の栃木大会。初戦から大田原高をノーヒットノーラン、石橋高を完全試合、栃木工をノーヒットノーランで下し、準決勝の小山高戦も9回までヒットを許さなかった。1点でも入っていれば4試合連続ノーヒットノーランである。

 しかし、味方も点が奪えず、0―0のまま延長戦に突入。11回1死二、三塁のピンチで初球ストライクのあとの2球目だった。スクイズを警戒したベンチの「外せ」のサインを捕手が「カーブ」と勘違い。そのカーブをうまく三塁側に転がされた。必死でマウンドを駆け下りたが、タイミングが合わず尻餅をつくような格好でサヨナラ負けの瞬間を迎えた。

 江川氏「高めに投げればファウルか空振り。真っすぐだったらスクイズは絶対されなかった。僕の真っすぐは浮く(ホップするように見える)のとズドーンと速いのと2種類あって、その日の体調によって違う。どっちかというと浮いてくる方が多かったけど、高校時代初めて浮いたのは1年秋の前橋工業戦。スピード的に1番速かったのは2年夏の小山戦だったと思う」

~前年秋の関東大会制覇 銚子商20奪三振 横浜は16奪三振~

 関東大会栃木県予選は1回戦で那須高を14―0(7回コールド)で下すと足利工を4―0、宇都宮学院を9―0、烏山高を7―0と無失点で千葉県銚子市で行われた本大会に進出。1回戦では東京農大二高(群馬)を10―0(8回コールド)で破った。江川は6回まで1安打に抑え、毎回の13三振を奪った。

 続く準決勝で地元の銚子商(千葉)を1安打完封。20三振を奪った。4―0の快勝。ようやく夢をかなえた。

 江川氏「甲子園は春と夏と1回ずつは出たいと思ってたんで、うれしかった。それまでずっとぎりぎりで逃してきましたからね」

 決勝戦も横浜高(神奈川)に6―0と快勝。16奪三振の4安打完封で初の甲子園に花を添えた。
 
~甲子園デビューは「疲れてたから」19奪三振~

 新チームになって自責点0のまま乗り込んだ聖地。驚異的な奪三振ペースは7、8回で落ちたものの9回は再びエンジンをかけ3者三振で締めた。大会記録には2つ及ばなかったが、優勝候補を散発4安打で完封し、19三振を奪った。

 北陽高の当時の野球部長、松岡英孝氏はいきなり1回戦で当たった怪物を「体があるわ、球は速いわ。今思い出してもゾッとしますわ」と振り返る。「バットを短く持ったら精神的に江川君という名前に圧迫される。1番から9番まで長く持って一発を狙わせたんですが…」。大胆な攻略法は空振りに終わった。

 60年から90年まで同校の監督、部長として30年にわたって野球部の指導に携わり、監督として春6回夏2回の計8回、部長として春夏1度ずつ甲子園へ導いた松岡氏。大阪では尾崎行雄(浪商=現大体大浪商)や江夏豊(大阪学院)、甲子園でも多くの一流投手と対戦してきたが、「こりゃあ打てないと思ったのは江川君とタテのカーブがよかった工藤君(名電=現愛工大名電、前ソフトバンク監督)の2人だけ」と明かす。

 江川氏「(奪三振ペースが落ちたのは)疲れてたんでしょうね、開会式で。デキとしては普通。三振は取れたけど、4安打されることも三塁打を打たれることもあまりなかったことなんで」

 相手が強力打線の北陽高ではなく、開会式で立ちっぱなしの直後というハンデのない第2試合以降だったら、とんでもない記録を打ち立てたかもしれない。(後編に続く)

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