元早大監督・応武篤良氏死去 64歳、ともに黄金期築いた斎藤佑樹氏「たくさんのこと教えていただいた」

[ 2022年9月8日 05:00 ]

東京六大学野球・2010秋季リーグ戦。優勝杯を手に笑顔を見せる早大・応武篤良監督(左)と先発の斎藤佑樹投手
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 東京六大学野球リーグの早大や社会人野球の新日本製鉄君津などで監督を務めた応武篤良(おうたけ・あつよし)氏が7日午前9時15分、心不全のため死去した。64歳だった。広島県出身。通夜は8日、葬儀・告別式は9日に行われる。05年から務めた早大監督時代は6度のリーグ優勝を達成。斎藤佑樹氏(34=前日本ハム)らを擁して黄金期を築くなど、アマチュア球界の発展に尽力した。

 アマチュア球界の名将が天国へ旅立った。応武氏は18年から母校・崇徳(広島)の監督を務めていたが病気療養のため7月に退任し総監督となっていた。入退院を繰り返す中でも指導への情熱は冷めず、後任の藤本誠監督に広島大会中は選手起用も含め指示を出していたという。スポニチ本紙評論家で親交があった広澤克実氏が約1カ月前に連絡した際も「俺は元気だ。まだまだ長生きする」と語っていたが、この日午前に心不全で帰らぬ人となった。

 応武氏の輝かしい経歴の中で最も注目を集めたのは早大監督時代だ。05~10年の12シーズンで6度のリーグ制覇と2度の日本一を達成。特に06年夏の甲子園を沸かせ鳴り物入りで入学した斎藤佑樹については「大変な責任を負った」と話し、1年時の春季リーグでは東大戦で開幕投手に抜てき。5回まで完全投球を見せるなど6回無失点に抑えて白星を飾り「斎藤が打たれて負けていたら選手たちの信頼を失い、監督としての私は終わっていた」とまで語っていた。

 突然の訃報に斎藤氏は「数日前まで連絡を取り、また元気な姿にお会いできると思っていました。たくさんのことを教えていただきました」と悼んだ。同じく教え子の楽天・福井も「福井が一番プロ向きだ、と言ってくれた言葉が一番心に残っている。一日でも長くプロで野球をしている姿を天国から見てもらい恩返しできるように頑張りたい」と誓った。早大以外にも新日本製鉄君津時代の教え子である元ソフトバンクの松中信彦氏、元ロッテの渡辺俊介氏(現日本製鉄かずさマジック監督)のプロでの活躍も喜んでいたという。

 選手としては崇徳3年時の76年選抜で優勝し、新日本製鉄広畑時代は強打の捕手で88年ソウル五輪に出場。正捕手は元ヤクルト監督の古田敦也氏だったが献身的にチームを支え銀メダル獲得に貢献した。豊富な経験をもとに育成した多くの選手らが、現在の野球界を各方面で支えている。

 ▼山崎隆造氏(元広島。崇徳高時代の同級生で山崎氏が主将、応武氏が副主将)母校再建への熱意を感じたし、周囲に良い影響を与えてくれた。本人も(志半ばで)悔しいと思う。その思いを伝えていきながら、みんなで同じ方向に進んでいきたい。

 ▼松中信彦氏(新日鉄君津時代の教え子)自分がプロに入ることができたのは応武さんの指導です。アトランタ五輪で苦しんでいた時(1次リーグ3連敗)には米国へ足を運んで励ましてくれた。びっくりしたけど、そのニカラグア戦でホームランを打てた。一番の思い出です。

 ▼西武・大石達也2軍投手コーチ(早大時代の教え子)野手で早稲田に入学した自分を投手として育ててくれた。僕自身、投手をやりたいとずっと言っていたのですが、入学してすぐにお風呂で一緒になった時に“ピッチャーをやりたいのか?”と声をかけてくれて、翌日から投手の練習を始めました。本当に感謝しています。

 ◇応武 篤良(おうたけ・あつよし)1958年(昭33)5月12日生まれ、広島県出身。崇徳3年春に甲子園優勝。同年秋のドラフト3位で近鉄に指名されるも早大に進学し、2年春から捕手でベンチ入り。新日本製鉄広畑時代の88年にソウル五輪出場。現役引退後は新日本製鉄君津の監督を務め、04年夏から早大コーチ。同年秋季リーグ終了後に監督就任。10年秋の明治神宮大会で優勝して退任。18年8月から崇徳の監督となり、今年7月に病気療養のため監督を退き、総監督となった。

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2022年9月8日のニュース