【内田雅也の追球】安芸は猛虎の故郷、厳しさと地元の人びとの温かさに触れた記者の原点

[ 2022年7月22日 08:00 ]

阪神が初めて安芸でキャンプを張った1965年2月、担当記者との記念撮影。背番号61が藤本定義監督、左に戸沢一隆球団代表、ゲリンジャー臨時コーチ夫妻=藤本義彦さん提供=
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 初めて安芸を訪れたのは1988(昭和63)年1月30日だった。トラ番最若手として、31日にチームがキャンプ地入りするのを待ち構える作戦で、フェリーで渡った。

 仕事を終え、夜に繰り出した。小さな港町で「スポニチですが」と言えば「ああ、〇〇さんの」「阪神の〇〇さんは」と、どこも先輩や阪神のなじみになっている。何軒も調べ歩いて、ようやく阪神も新聞記者も知らない店、つまり自分の店を探しだした。

 ある日、そのスナック・マスターの実家に呼ばれ、軍鶏(シャモ)鍋をよばれた。拝見したアルバムには村山実のひざに乗った少年時代の写真があり、おじいちゃんは江夏豊との思い出を話す。

 つまり、安芸には阪神と新聞記者と関わりのない人や場所などなかったわけだ。どこに行っても猛虎たちの香りが漂い、息づかいが聞こえた。

 何しろ、歴史が古い。阪神が初めてキャンプを張ったのが1965(昭和40)年である。小高い山(妙高山)を自衛隊が造成した。マネジャー・奥井成一は選手に「パチンコ屋が2軒、映画館が2軒あるだけや」と正直に話した。不満は出なかった。土佐赤牛や海の幸はうまく、何より地元の人びとの温かさに触れた。「タイガータウン」として猛虎の「第二の故郷」になっていった。

 初キャンプの65年、監督・藤本定義が残したメモには<新聞記者を大切にあつかえ>とあった。室戸岬への半日旅行や料亭での食事会を開いている。孫の藤本義人に借りた写真に当時の担当記者との記念撮影がある。

 ここに写っている万代隆の『球界時評』(高知新聞社)に安芸での思い出話が多く出てくる。毎朝毎晩、旅館の監督室を訪ね、夜は高級洋酒を頂いた。選手にとんちんかんな質問をした。電話でデスクに怒鳴られ、原稿を差し替えた……。まるで自分のことのようだ。

 しかし、選手同様に記者も安芸で鍛えられていった。万代は<でも何もかもが新鮮で、この魅力の前に立ちふさがるものはなかった>と書いている。そして<愚直だった日がほしい>。原点なのだと自分でも思う。

 そんな安芸から2軍も撤退する。沖縄で1・2軍ともやる方が便利なのだと理解はする。

 ママは元気だが、マスターはあの世にいき、3人の娘たちは看護師になり、子を産んだ。時は流れたのだ。=敬称略=(編集委員)

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2022年7月22日のニュース