12年センバツ石巻工 「諦めない」体現し続けた監督、主将の姿勢が地元の力に

[ 2021年3月11日 08:45 ]

12年センバツ、開会式で選手宣誓する石巻工・阿部主将
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 誰もが忘れることができない日。「3・11」。東日本大震災から10年がたった。

 記者は震災が発生した11年、翌12年とアマチュア野球を担当。取材で何度も被災地に足を運んだ。思い出深いのが12年センバツに出場した石巻工だ。津波で校庭が水没するなど、甚大な被害を受けた宮城県石巻市から21世紀枠で出場権を獲得。センバツで主将の阿部翔人さんが出場32校を代表して宣誓の大役を堂々と務め、多くの感動を呼んだ。

 石巻工の野球部員の7割が津波の被害を受け、野球道具を失った。震災から2日間はカーテンを体に巻いて寒さに耐え、少量のビスケットなどを分け合って空腹をしのいだ。阿部さんの自宅は1階天井まで浸水して全壊した。石巻工の松本嘉次監督(当時)は学校付近の高齢者を救出するため、胸の高さまできた津波をかき分け救助活動。避難したアパートの部屋に老人を優先的に入れ、自身は「死を覚悟して」零度を下回る室外で凍り付いた衣服を着たまま一夜を過ごした。黒い波が一瞬にして街を飲み込み、多くの人生を一変させた。

 当時のナインは、野球を続けることよりも生きることに必死だったと話していた。街中が深い悲しみに包まれる中、一日、一日必死で生きてきた。そして、10年がたった。現在、宮城県高野連の理事長を務める松本氏は「早いよ。あっという間の10年だった」と振り返り、こう続けた。「街は変わらないよ。建物が建っただけで、(被災者の心の)中に残っているものは深いからね。元に戻るなんてことはないんだからさ。みんな10年たったと思ってないんじゃない?毎日、一生懸命やらなきゃいけないのは変わらないんだから」。街は整備されつつある。それでも、多くの人を亡くした深い悲しみは一生消えることはないのだ。節目の10年。しかし、被災者にとっては毎年が特別な「3・11」なのだと感じた。

 被災地ではそれでも前を向いて生きている人々がいる。松本理事長は「いい方向に向かっていると考えて、前を向いて日々を過ごすしかないよね。みんな頑張っているよ」と街の様子を教えてくれた。松本理事長には新たな楽しみができた。宮城県内で非常勤講師を務めてきた元主将の阿部さんが、教員採用試験に5度目の挑戦で見事合格。今年4月から保健体育の教員として教壇に立つことになった。4度不合格となりながらも教員になるという夢をついに叶えた阿部さんに、松本理事長は「貫いてやるあたりは大したもんだよ。成し遂げないといけないと思ったんじゃないかな。そういうのを持っている人間は強いよね。芯の強さがある」と目を細めた。

 昨年はコロナ禍で夏の甲子園大会と地方大会が中止となった。だが、東北地区高野連理事長も務める松本理事長は、様々な難しい調整をこなして全国で唯一独自の東北大会を開催した。松本理事長は、笑顔まじりに言った。「何でもチャレンジだね。できることを探せば何でもできるのさ。何でも諦めずにやればね」。そして、震災から10年の今春センバツで同じ宮城県から出場する仙台育英が選手宣誓の大役を担うことになった。不思議な縁に「何かあるんじゃない。このままセンバツができるといいね」と祈るように話した。

 石巻工ナインは12年センバツで「諦めない街・石巻!!その力に俺たちはなる!!」と記した横断幕を掲げて全力で駆け抜けた。諦めず、力強く前を向いて生きる松本理事長と阿部さんの姿勢は、間違いなく今でも地元・石巻の力になっていると感じた。(記者コラム・東尾 洋樹)

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2021年3月11日のニュース