楽天・マー君と3・11 日本一の歓喜を再現するため「期待を超えていく」

[ 2021年3月11日 05:30 ]

11年4月29日、震災後初の本拠地公式戦となった楽天・オリックス4回戦のウイニングボール
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 楽天・田中将大投手(32)が10日、10年前の東日本大震災を振り返り、思いを語った。球団初の日本一の立役者となり、東北に歓喜を届けた13年以来、8年ぶりにチームに復帰した右腕。節目の日に、今季に臨む決意を改めて口にした。

 未曽有の被害をもたらした震災から10年の節目。絶対的エースが8年ぶりに楽天に帰ってきた。周囲の期待は当然のように大きい。それを理解しているからこそ「一試合一試合、一球一球しっかりと投げてチームの勝利に貢献する。それをやっていくことでみなさんの期待と結果が直結すると思う」と、自然に言葉に力がこもる。

 2011年3月11日、午後2時46分。兵庫県明石市でのロッテとのオープン戦に登板予定がなく、翌日の遠征先の横浜へ向けて新幹線で移動中だった。「新幹線の中で騒ぎになった」。その日は名古屋で足止め。チームが本拠地に戻れたのは1カ月近くがたった4月7日だった。

 「自分の家のこともあったし、チームには家族がいても帰れないという人もいて、気持ち的にはなかなか野球に集中するのは難しい状況だった」

 翌8日、チーム内で手分けして被災地を訪問。報道などで映像は見ていたが、東松島市の避難所に向かう途中で想像をはるかに超える惨状が待っていた。

 「津波が来て被害を受けたところを見て、言葉にならなかった」。

 目の前の現実を受け入れられなかった。

 「こんな状況で、野球を本当にやってていいのかという気持ちはずっとあった」

 葛藤を抱いたままシーズンの開幕を迎えた。4月29日、オリックスとの本拠地開幕戦。日常生活すら取り戻せていない状況にもかかわらず、球場には2万613人の観衆が集まった。「ファンの方々もたくさん見に来てくださった。何としても絶対に勝たないといけない試合だなと思って投げた」。満員の歓声に包まれながら、9回138球を投げ抜いた。1失点で完投勝利。日米通算177勝を挙げているが「自分にとって印象的な試合の一つというのは間違いない」と振り返る。

 米国に渡ってからもオフに帰国した際には仙台を訪れ、17年からは小学生らとの交流を続けている。「発信していくことに何か意味がある」。震災を風化させてはいけないという思いから、継続することの重要性を感じている。活躍の場を戻したことで、今後も新たな復興支援活動を計画しているという。

 「身近にいることでできることは増えるだろうし、日本にいる期間も長くなる。今の段階で言えることではないけど、考えていることもある。いろいろとやっていけたら」

 育ててもらった東北に恩返しをする。元気づけたいと思って足を運んだ被災地では「逆に僕たちが元気をもらった」。いつも声援や笑顔に背中を押してもらってきた。

 「応援してくださる方々の声は届いていますし、またみんなで喜びを分かち合いたい。期待を超えていくのが選手として必要なこと」。8年前の歓喜を必ず再現する。それ以上の感動も届けたい。そのために「みちのく」に帰ってきたのだから。(重光 晋太郎)

 ▽田中将と東日本大震災 3.11から約1カ月後の4月8日に震災後初めて仙台に戻り、東松島市の避難所を訪問。子供たちと触れ合い「逆に勇気をもらった」と語った。

 11年4月の復興試合では日本ハム・斎藤らと募金活動を行い、12年12月には「プロ野球88年会」の支援活動で福島市を訪問。小中学生への野球教室や、ボランティアでの炊き出しを行った。

 個人としても12年2月には沢村賞(11年)の賞金300万円を宮城県南三陸町の漁業組合に寄付。ヤンキース移籍後も継続的に仙台市の小学校を訪問していた。

《ブルペンで29球》田中将は次回登板の13日DeNA戦(静岡)に備え、ブルペンで29球を投げ込んだほか、ランニングなどで調整した。

 再び楽天の一員となって迎える「3・11」。ロッテ戦(同)では半旗を掲揚し、試合開始前には両軍による黙とうが予定されている。本拠の楽天生命パークでも半旗を掲げ、球団職員が発生時刻の午後2時46分に黙とうをささげる。

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