中畑清氏「オレのプロ野球人生のすべて」1軍定着の道を開いた日米野球の崖っ縁弾

[ 2020年5月25日 06:30 ]

我が野球人生のクライマックス

1978年10月28日、日米野球第1戦シンシナティ・レッズ戦で8回、ソトから決勝2ランを放つ中畑清
Photo By スポニチ

 鳴かず飛ばずのプロ野球人生にひと筋の光が見えた――。スポニチの野球評論家陣が、忘れ得ぬ試合やワンシーンを自ら振り返る「我が野球人生のクライマックス」。最終回の中畑清氏(66)は、1978年10月28日、大リーグのレッズを迎えた日米野球の第1戦(後楽園)を挙げた。駒大からドラフト3位で入団して3年目。2軍生活が続く崖っ縁で放った一発が1軍定着のきっかけとなった。(構成・永瀬 郷太郎)

 4―6で迎えた8回だった。張本勲、王貞治の長短打に捕逸が絡んで1点を返し、なお1死二塁。試合途中、高田繁に代わって三塁守備についた中畑に打順が回ってきた。

 プロ入り3年間、1軍では8打席しか立っていない。1軍半とも言えない存在の背番号24は代打を出されると思ってもじもじしていたら、ベンチから長嶋監督が出てきた。

 「なんだ。代えてもらいたそうな顔しやがって。おまえが行くんだ。行ってこい」

 マウンドには先発のトム・シーバーから7回に代わったマリオ・ソト。通算100勝を挙げる右腕も、この時点ではまだ3勝しかしていなかった。

 長嶋に尻を叩かれた中畑は初球、外寄りの真っすぐを思い切り叩いた。会心の手応え。打球は左翼席上段に突き刺さった。逆転2ラン。シンデレラボーイは夢見心地でダイヤモンドを一周した。

 当時は読売新聞社と毎日新聞社が交互に主催し、隔年で行われた日米野球。75年から2年連続ワールドチャンピオンに輝いた「ビッグレッドマシン」を招いたこの年は読売の番で、17試合中9試合が巨人単独チームとの試合だった。

 日本のチームはレッズに2勝14敗1分けと圧倒的な力を見せつけられた。巨人単独チームは1勝7敗1分け。唯一の勝利をもたらした中畑は8試合に出場して26打数7安打、打率・269の成績を残し、敵将のスパーキー・アンダーソン監督に「あれが2軍の選手か。すぐ1軍で使うべきだ」と言わせた。

 「オレのプロ野球人生のすべてだね。あの日米野球がなかったら、もう終わってたかもしれない。長嶋さんがよく2軍から呼んで使ってくれたよ」

 《ピート・ローズら豪華メンバーズラリ》○…78年に来日したレッズは凄いメンバーがそろっていた。通算311勝を挙げるトム・シーバー、史上最高の捕手と呼ばれたジョニー・ベンチ、メジャー最多の通算4256安打を放つピート・ローズ…。75年から2年連続ワールドチャンピオンに輝いた「ビッグレッドマシン」の実力はいかんなく発揮された。しかし、帰国直後にアンダーソン監督が解任され、ローズもFAでフィリーズに移籍するなど、チームの解体は進んだ。

 《翌年に初の開幕1軍》78年の日米野球できっかけをつかんだ中畑は翌79年、初の開幕1軍を果たし、6月に三塁のレギュラーを高田から奪った。8月末の段階では打率.325。新人王最有力と言われていたが、9月に入ったあたりから急降下し、9月16日の中日戦で小松の投球を右手人さし指に受けて骨折。規定打席にも届かず、打率.294、12本塁打、45打点で、新人王も13勝(5敗)を挙げた藤沢公也(中日)に譲った。

 ◆中畑 清(なかはた・きよし)1954年(昭29)1月6日生まれ、福島県出身の66歳。安積商(現帝京安積)から駒大を経て75年ドラフト3位で巨人入団。一塁手として82年から7年連続ゴールデングラブ賞受賞。85年労組・日本プロ野球選手会初代会長就任。89年限りで現役を引退した。通算1248試合、1294安打、171本塁打、621打点。04年アテネ五輪ではヘッド兼打撃コーチとして日本代表の指揮を執り、銅メダルを獲得。12~15年までDeNA監督を務めた。現巨人OB会長。

続きを表示

2020年5月25日のニュース