【広澤克実氏 直撃キーマン(下)】阪神・糸原は“はっちゃける”「声を出して盛り上げていく立場」

[ 2023年3月1日 07:30 ]

広澤克実氏(右)から打撃のアドバイスを受ける阪神・糸原(撮影・岸 良祐) 
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 (上)から続く

 広澤 ところで明治に入って良かった?

 糸原 はい、良かったです。

 広澤 明治には推薦で入部したの?

 糸原 セレクションで入部しました。僕は広島の野村祐輔さんの3学年下です。同期はオリックスの山崎福也です。

 広澤 福也か!福也はさ、俺、明治始まって以来の活躍した人間だと思ってる。投げて打って守って…すごいよ、あれ!じゃあ随分優勝しただろ。

 糸原 まず僕が入った11年秋の明治神宮大会で日本一になって、3年生の13年にはリーグ戦で春秋連覇。4年生の秋もリーグ戦で優勝したんで4回ですね。広澤さんがコーチをしてくださっていた時期もありました。

 広澤 関係者から電話があって“リーグ戦で糸原が打てないんですよ”と。1、2年生で試合に出始めた頃で、8番打者。打てなくて“どうにかお願いしますよ”って。糸原はそんなに打ってなかったっけかな?…と思って。何回か指導したけど、後はもううなぎ上りに成長していったよな。

 糸原 僕の思い出は長野県の高森キャンプで、虫がいっぱい出る広場で素振りしたことです(笑い)。

 広澤 あー、高森キャンプな!真っ暗で虫もいて、お化けが出るんだ(笑い)。見たっていう人もいるよね(笑い)。

 糸原 そこで最初はみんな素振りするんですけど、ピックアップされていくんです。僕は結構居残り組で…。“お前は絶対ポイントゲッターだから”と言われたのが、めちゃくちゃ覚えてます。

 広澤 善浪達也監督の時代な。あの夏の合宿でいっぱいバットを振ってもらおうと思ってさ。それは俺の思いというか、なんか声が聞こえてくんだよ。島岡吉郎(※2)の“あれ振らせなきゃダメなんだよ!”と。みんないっぱい振ったよな。その後JX―ENEOSを経て、プロに入ってからどう?覚えたものもたくさんあると思うんだけど、アマチュア時代から変わったことはある?

 糸原 打席の中で“打てる球”というのが少ないです。ほぼ(1打席に)1球しかないぐらい、プロはレベルが高い。その一球をファウルにしたら、絶対打ち取られるという感覚はすごくありました。甘い球も、ほぼ1球あるかないか。最初は“プロはすごいな…”と思いました。

 広澤 それでもプロではすぐに対応していったよな。1年目の宜野座キャンプに来た時に、当時の金本監督から“すごく使えますよ。なんで明治からプロに行かなかったんですか”と聞かれた記憶がある。

 糸原 4年生の時に骨折して、JX―ENEOSにお世話になることにしました。

 広澤 JX―ENEOSに入るだけでもすごいけどな。金本監督の評価が本当に高かった。

 糸原 使ってもらったので、本当に感謝してます。

 広澤 2、3年目に全試合出場で、2年目の18年にはオールスターにも出場。昨シーズンはちょっと成績は悪かったけど、ここまで順調に来たんだな。

 糸原 僕なりには(笑い)。阪神に入った時は、“これ練習するしかないな…”と感じました。真っすぐに振り負けないようにというのはずっと思ってたんで、ファウルにしないようにだったり、追い込まれたら、持ち味というか、僕の中では粘りというのはずっと意識しています。

 広澤 そういう粘りはプロに入ってから覚えたもの?

 糸原 社会人くらいからですかね。高校、大学は結構初球からどんどんいくタイプだったんですけど、社会人は一発勝負。初球でパーンとフライを打ち上げたりしたら、やっぱりチームのムードも悪くなるので…。

 広澤 昨シーズンの途中から、打撃フォームの構えからトップにかけての形が変わったよね。バットの位置がね。あれはどうして?

 糸原 ちょっとバットが寝すぎていて、横ぶりのスイングになってるなと思って、バットを立て気味にしました。
 (ここから実際にバットを持って約5分、身ぶり手ぶりの指導)

 広澤 糸原は元々気が強い。負けん気はあるだろうから、集中する力さえあれば大丈夫だよ。特にキャンプでは糸原がグラウンドで大声を出して盛り上げるシーンが多いよな。

 糸原 性格的に、僕は結構声を出していくタイプ。後輩たちに“はっちゃける”タイプの選手はあんまりいないので、僕がしっかり声を出して、チームを盛り上げていく立場でもあると思う。試合に出る、出ないは関係なく、絶対大事なこと。

 広澤 意識的にやってたんだな。

 糸原 三塁は投手まで近いですし、シーズンが始まるといい時ばっかりじゃないと思う。つらい時期が来た時に、これまでの経験を生かして、積極的に声掛けをしていければいいかなと思います。

 ※2 1952年の明大野球部監督就任から88年まで、総監督も含め37年間指導。御大として親しまれ部員たちは「オヤジ」と呼んだ。89年4月11日死去(享年77)。91年、競技者表彰として野球殿堂入り。

 《編集後記》
 広澤さんが「大学の時は首根っこつかまえてバットを振らせていたのに、きょうは“糸原選手”って呼ばないといけないな」と苦笑い。糸原が練習メニューを終わらせて駆け足でやってくると、緊張気味に「お待たせして、すみませんでした」と言って対談がスタートした。この10年、母校・明大で技術指導をしている広澤さんは、糸原の大学時代から見てきている。対談の途中、そして終了後もバットを持って熱のこもったバッティング談議。「インコース打つときのバットの軌道はこれでいいですか?」「バットを振るイメージではなく、肘を引く感じで」「外角の時のインパクトはこの辺ですか?」「基本は胸の前」10年前もきっとこんな光景だったんだろうな、と思いながら聞き入ってしまった。(畑野 理之)

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2023年3月1日のニュース