水木一郎さん歌謡曲歌手からの転身 一時は歌手を辞めようとしたことも…めぐり合った「マジンガーZ」

[ 2022年12月12日 15:43 ]

ANIME JAPAN FES 2022で歌声を披露した水木一郎さん
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 アニソン界の帝王”水木一郎(みずき・いちろう)さんが今月6日に肺がんで亡くなった。所属事務所が公式サイトで発表した。74歳。東京都出身。2022年7月にリンパ節と脳転移を伴う肺がんと闘病していることを公表し、リハビリに努めながら精力的に活動していた。

 幼少期から音楽に親しんだ水木さん。世田谷学園高校卒業後の1964年にジャズ喫茶で出会ったザ・ドリフターズ2代目リーダー桜井輝夫の勧めで、新宿区歌舞伎町にあったジャズ喫茶「ラ・セーヌ」で開催されたコンテストに出場して優勝。これがデビューへのきっかけとなった。

 68年に歌謡曲歌手として「君にささげる僕の歌」でレコードデビュー。売り上げは伸びず、日本コロムビア専属となったが、同じ万城目正門下で先輩歌手の九条万里子と結婚することになったことから、自分より売れていた妻を支えようと歌手を断念する決意を固めた。作曲家への転向を模索したが、その矢先の71年、コロムビアのディレクターの勧めでアニメ「原始少年リュウ」のオープニングテーマを歌うことになり、これが帝王への道を開くことになった。

 当時は映画主題歌を歌いたい思いもあったというが「アニメも一つの映画」だと考え、真摯(しんし)にアニメに向き合い、アニソンへの道歩むことになる。73年発売の「マジンガーZ」の主題歌レコードは70万枚を超える大ヒットを記録。日本中に響き渡った水木さんの歌声が子供たちを喜ばせただけでなく、水木さんにとってもアニソン歌手の第一人者としての地位を不動のものとした。

 その後、アニメ関係の仕事と並行して76年4月から79年3月まではNHKの子供番組「おかあさんといっしょ」の2代目うたのおにいさんを務めた。これが縁で、後に「アニキ」と呼ばれるようになった。

 82年には、自らが吹き込んだ主題歌レコードのトータルセールスが700万枚以上という記録を樹立し、「ギネスブック」に掲載された。90年9月から92年8月にかけて「水木一郎大全集」Vol.1~5を発売。97年3月にさらなる飛躍を期して日本コロムビアとの専属契約を解き、フリーに転向。同年8月にアニメソングを21世紀に残そうと、水木さんが中心となってアニソン界を担うシンガーたちに声をかけ、賛同者が赤坂ブリッツに集結。これが「スーパーロボット魂」ライブの幕開けとなった。99年には歌手生活30周年記念のベスト盤CD「兄尊」をリリース。「アニキ(兄貴)」と「アニソン」を引っかけたタイトルが話題を呼んだ。同年8月30日から31日にかけてはアニソン番組「快進撃TVうたえモン」の企画で、山梨県河口湖ステラシアターで「24時間1000曲ライブ」を敢行したことでも話題となった。さらに、2000年7月には影山ヒロノブ、松本梨香らとユニット「JAM Project」を結成するなど、活動の幅を広げることをやめなかった。01年2月2日には「香港キャラクターショーケース2001」でライブを開催。この時、熱烈な「アニキコール」に感激し、胸を熱くする水木さんの姿があった。

 また、中日ファンとして知られ、応援歌「燃えよドラゴンズ!」を02年以降歌い、計6回のリリースを重ねている。14年8月12日に行われた中日対DeNA(岐阜・長良川球場)では、「君が代」独唱に続いて「燃えよドラゴンズ!球場合唱編」を熱唱した。

 歌手活動の一方で、「水木一郎ヴォーカルスクール」を主宰し、後進の育成にも尽力。卒業生には松原剛志、貴月ワタリ、平山佳代子らがいる。教え子の松原が「海賊戦隊ゴーカイジャー」の主題歌を歌うことが決まった時には「やったな!」と自分のことのように喜んだという。まさに「アニキ」として慕われた先人。喪失感は当分収まりそうにない。

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