星野監督の横が定位置 主戦捕手・矢野の壁に阻まれ、それでもベスト尽くした苦労人が虎にエール

[ 2022年5月17日 07:00 ]

猛虎の血―タテジマ戦士のその後―(15)浅井良氏

若いころは星野仙一監督(左)の横に座るのが定位置だった浅井良氏
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 浅井良(42)は03年、05年のリーグ優勝では欠かすことのできない戦力だった。矢野燿大監督の控え捕手として常にスタンバイし、ベンチとブルペンを往復した。求められる役目をこなし、ベンチの士気を高めた。控えも含めた総合力が、チームの力だと信じてプレーしてきた。このままで猛虎が終わるはずがない。北新地で経営する店からお客さんとともに、巻き返しを信じていた。 浅井良氏の動画「スポニチチャンネル」はこちら

 北新地にも少しずつ人が戻ってきた。コロナ対策で再三の休業要請に従いながら、浅井良は必死に店を守ってきた。堂浜アネックスビル5階の「AZAS’」。12年間に及ぶ阪神での現役生活を終えると、飲食の世界に入った。「お酒は好きだったし、そんな場も楽しいと感じていた。人と触れあうのも好きだった」と引退の翌年に心斎橋で店をオープン。その後、場所を北新地に移した。「元気でやってるか」とタテジマOBがふらっと顔を出すこともあれば、一見さんが「マスターが、あの浅井さん!」と驚くこともある。

 「現役時代はファンの人にも無愛想だったかもしれない。補欠がチャラチャラしていたら怒られる時代だったから。でもお店でいろんな人と接するようになって、勝った負けたの一喜一憂が明日への活力になることを知った。ファンの人の熱量を改めて感じます」

 桐蔭学園では3年夏に投手として甲子園を経験した。しかし、1年下には横浜高の松坂大輔がいて、関東地区の同期には水戸商の井川慶がいた。「投手としてはプロでは通用しない」と、法大では捕手に転向。強肩強打の捕手として01年ドラフト自由枠で阪神入団を決めた。最初の監督が星野仙一。ベンチでは闘将の横に座るのが、一番若い浅井の最初の役目だった。

 「怖い人というイメージだったけど、意外に温厚な一面もあった。それでも勝負には厳しい。カッとなったら前のベンチを蹴り上げるから大変。横なので良かったけど」

 だが、プロの壁は厚い。のちに監督となる矢野輝弘(当時)がレギュラーとして君臨し、03年、05年とチームがリーグ優勝をした時代。控え捕手として1軍にはいるが、出番は限られた。試合中盤からはブルペンに入り、JFKらリリーフ陣の球を受けるのも浅井の役目。それでも試合の前は矢野以上に時間をかけて、相手打線の研究に努めた。「いつ出番があるか分からない。そのときに印象を残さないと」と準備を欠かさなかった。

 その姿勢が08年からの外野転向でも生きた。ピンチを打球判断と肩で何度も救った。甲子園の風の傾向も頭に叩き込んだ。「会心のプレーとギャンブルプレーは違う。場面と状況に応じたプレーをしないと痛手を負う」と常に神経を配り、甲子園を沸かせた。
 今も週一度のペースで東大阪市の「ブリスフィールド東大阪」で子供たちに野球を教えている。モットーにしているのは「体の大きさだけで型にはめちゃいけない。小さくてもホームランが打ててこそ野球は面白い」。昼も夜も、野球の楽しさを伝えている。

 苦しい戦いが続く阪神にもメッセージを送った。「野球に打ち込める幸せを感じてほしい。今いる世界がどれだけ恵まれているか、引退する前に気づいてほしい。特に鳴尾浜にいる選手にはユニホームの重みを感じてほしい」。どんな状況でもベストを尽くす。それが野球選手として生き残る道だと浅井は訴えた。(鈴木 光)

 ◇浅井 良(あさい・りょう)1979年(昭54)7月19日生まれ、神奈川県横浜市出身の42歳。桐蔭学園では97年夏に投手として甲子園出場。法大では捕手として3度のリーグ優勝に貢献、4年秋には本塁打、打点の2冠を獲得。01年ドラフト自由獲得枠で阪神に入団。通算486試合に出場し、12本塁打、66打点、打率・249。13年に現役を引退。現在は大阪市北区堂島1の4の7堂浜アネックスビル5Fでバー「AZAS’」を経営する。

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