内田雅也が行く 猛虎の地(11)「甲子園シミズ」 選手の胃袋と心を満たした食堂

[ 2019年12月12日 08:00 ]

甲子園球場前で食堂・土産物店「甲子園シミズ」を開店した1948年ごろ。右から清水尚さん、母・浪子さん、女性店員。左の2人は連盟関係者という=清水栄子さん提供=
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 【(11)甲子園シミズ】

 阪神電鉄・甲子園駅から甲子園球場へ向かう途中に食堂・土産物店が並んでいた。その一つ「甲子園シミズ」は戦後1948(昭和23)年8月3日に創業、2006年の甲子園最終戦10月12日で閉店するまで59年間、営業を続けた。

 50年、松木謙治郎が阪神に監督で復帰すると、2月の甲子園球場でのキャンプにパン、おにぎり、うどんなど昼食を提供するよう頼まれた。創業主の清水尚、浪子夫婦は若狭出身、敦賀出身の松木は同郷だった。

 夫婦はまだ球団が誕生する前、29(昭和4)年に甲子園駅南東、鳴尾村西畑と呼ばれた地区でパンやケーキなど輸入品を販売する「甲子園食料品店」を開業した。球団ができた36年、店の隣のアパートが選手寮となった。交流が始まった。

 「父はにぎやかな人でよく選手を家に呼んだりしていました」と次女・栄子(87)が懐かしむ。当時店のあった場所で今も暮らす。「ここで顔洗うと縁起がいいんや」と選手たちは店先の水道を使って球場に向かっていった。

 対戦相手も近くに宿泊していた。長男・昭が甲陽中(現甲陽学院)を受験する際、同校OB(旭川中転校前に在籍)でもあるヴィクトル・スタルヒン(巨人)が「これが出る」といった問題が入試に出た。「スタさんの言う通りやった、と兄が喜んでいました」。

 西沢道夫(中日)は幼い栄子に「ならちゃん」とあだ名をつけた。「おならしたからだって。してませんのよ」と笑う。盲腸で入院した際、本を手に見舞ってくれた。

 41年に近所が火事になった際、兼任監督だった松木が「練習時間を遅らせ、手伝いに行け」と選手に命じ、商品や荷物を運び出してくれた。

 近所には作家・佐藤紅緑の屋敷もあった。次女・愛子もよく遊びに来ていた。作家・佐藤愛子(96)である。

 75年、愛子が「甲子園シミズ」を訪ねた様子を『失われゆくふるさと』=『これが佐藤愛子だ(3)』(集英社文庫)所収=に書いている。浪子と約40年ぶりの再会だった。

 <おばさんは(中略)私が声をかけるより早く、私を見つけ、一瞬ポカンと口を開けてから叫んだ。「まあ、佐藤さんのお嬢ちゃん!」><そのとき私は、ふるさとはここに、そっくりそのまま残っていたと思った。私の眼に涙が溢(あふ)れた>。色紙に<甲子園の 甲子園に 私の古里がある>と書いた。

 78年からは甲子園での試合前、阪神の選手たちの食事を提供するようになった。おでん、肉丼、うな丼、焼き飯、カレーライス、うどん、そば……。山本和行はいなりずし、福間納はかまぼこ、掛布雅之はそば、ランディ・バースは玉子うどんに天ぷら……と選手の好みに応じた。「遠征から帰るとシミズの食事にほっとする」と喜ばれた。栄子や次男・暹(すすむ)、その妻・祥子らは99年まで毎試合、店から球場まで食事を運んだ。

 栄子らは80年2月、海外キャンプのアリゾナ・テンピを訪れた。そうめんを持って行くと、「冷やさんでいい。早くつくって出してくれ」と選手たちが行列を作った。日本食を恋しがっていた。

 82年3月、岡田彰布の結婚披露宴に招待された。阪神の後援者だった父・勇郎が母・サカヨとの甲子園での待ち合わせ場所によく使っていた。

 店を閉める際、阪神の選手会から金色の置き時計が贈られた。栄子は今も自宅玄関に飾っている。「タイガースさんとは長い長いお付き合いでした。いい思い出ばかりが残っています」。西畑の店から数えれば、実に70年の交流である。猛虎たちのふる里である。

 跡地は再整備の工事が進んでいる。もう、かつての面影はない。来春4月には球団商品を売る「チームショップ・アルプス」が移転・新築され、開店する。=敬称略=(編集委員)

 ≪記者席にも出前≫甲子園シミズは甲子園球場記者席への出前もしてもらった。一番の人気は肉丼(牛丼)の具とご飯を分け、具に卵を入れる「別玉(べったま)」という裏メニューだった。「八宝菜そば」も人気だった。清水栄子さんは古いスポニチ記者の名前を出し「荒井忠さんはネギが苦手。大西(禧充)さんは大盛りだったわね。近藤(健)さんにはテンピで歓迎してもらった」と懐かしんだ。

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