【内田雅也の広角追球】母校・耐久の快進撃に驚く「鬼軍曹」 阪神の名物寮長だった梅本正之さん

[ 2023年10月31日 14:58 ]

1950年、津木中学野球部2年生。後列右から2人目が齋藤春太郎先生、同中央が梅本正之さん(本人提供)
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 【内田雅也の広角追球】梅本正之さん(88)は「何ごとか」と驚いたそうだ。29日夕方、母校、和歌山県立耐久高校が秋季近畿大会でベスト4進出を決め、来春の選抜大会出場を当確させた。学校関係者や友人からの電話が相次いだ。

 「びっくりしたよ。和歌山で優勝して驚いていたが、その日が近畿大会の準々決勝とは知らなかったからね。まさかベスト4とは……。たいしたもんだ。まだ、甲子園出場が決まったわけじゃないが、よくがんばった。おめでとうと言いたい」

 米寿を迎え、ひ孫が5人いる。母校が春夏通じて初の全国大会出場とは「長生きするもんやね。懐かしいよ」と笑った。

 「東雲(しののめ)なびく生石山(おいしやま)」「讃(たた)えよ耐久 吾等(われら)が母校」と今も校歌を歌える。

 梅本さんは耐久高校卒業後の1955(昭和30)年、投手として阪神タイガースに入団。63年現役引退後はコーチ、スコアラーなどを務め、84年から95年、98年から2003年の2期間、独身寮「虎風荘」の寮長を務めた。「鬼軍曹」と呼ばれ、多くの選手を指導、慕われた。

 出身は和歌山県有田郡津木(つぎ)村中村(今の広川町)。山あいの10数軒の家がある地区だった。牛やうさぎを飼い、大人たちがイノシシ狩りに出る時はついていき、山を走り回った。「おかげで足腰が丈夫になったのかもしれん」

 村役場の助役だった父・利雄さん、母・好子さんの次男として1936(昭和11)年8月に生まれた。兄・陸男さんの後を追う形で、野球を始めた。「相撲が盛んな地域でね。男の子の多くは相撲か野球をやっていた。兄はアンダースローの投手だった」

 本格的に野球を始めたのは津木中学校に進んでからだった。片道3キロの山道を通った。若くて元気な斎藤春太郎先生が野球部の顧問だった。入学時にはすでに身長1メートル70を超えていた。長身をいかし投手になった。

 家から通える高校は湯浅町にある耐久しかなかった。片道11キロを自転車で通った。行きは下りだが、帰りはつらい上りの山道だった。入学したのは1952(昭和27)年4月だった。

 監督は耐久OBで1938(昭和13)年、南海軍(現ソフトバンク)創設当時のメンバー(捕手)だった松野隆雄氏だった。町内の日東紡績(現日東紡)に勤めていた。「同じ日東紡績に勤める花手さんという方と交代で練習をみていただいた。尊敬のまなざしで見つめていました」

 部員は3学年合わせて15人ほど。身長はさらに伸びて1メートル79になった。投手だった。「我流で投げていた。球は速かったが、ノーコンだったなあ」

 高校3年間、夏の和歌山大会はすべて初戦敗退だった。舞台は和歌山市の県営向ノ芝球場。甲子園ははるかに遠かった。

 和歌山には1学年下に甲子園をわかせる剛腕、新宮高の前岡(井崎)勤也、本塁打王、打点王となる南部高・藤本勝巳がいた。ともに、後に阪神での同僚となった。

 2年生だった1953(昭和28)年7月、大会直前に有田地方が大水害に見舞われ、交通網が遮断された。同学年の捕手、児島義夫さんの自宅も被害にあい、部員たちで復旧作業を手伝った。「児島はいい選手だった。小柄だがファイトあふれるキャッチャーだった」

 54年の3年生最後の夏は3番・児島、4番・梅本のバッテリー中心のチーム。必勝を期して初戦、串本戦に臨んだが、0―1で惜敗した。記録によると、被安打3、10三振を奪ったが7四球を与えている。「しっかり思い出せないが、やっぱりノーコンがアダになったんやなあ」

 ただ、長身の速球投手と評判だったのだろう。耐久の先輩で阪神電鉄の役員(球団取締役)だった田坂岩男氏の紹介で、タイガース入りすることになった。契約金20万円、月給2万円だった。

 「いま思えば、和歌山の山中から出て行って、きらびやかなプロ野球の世界でやれたもんだ。それも勤続50年。誉れに思っていますよ」

 寮長退任後の2004年1月、耐久高校同窓会に招かれ、母校で講演を行った。「目標を持って毎日を過ごし、ベストを尽くしてほしい。プロ野球選手と同じだが、良い友人を選ぶことによって進む道は決まる」と、出会いと交友関係の大切さを説いた。

 戦時中、父は出征。大阪・信太山に駐屯していた。軍曹だった。後年、寮長として「鬼軍曹」と呼ばれたのは父の関係もあったのだろう。

 帰省した際、「しけた乾パンかじりつつ」と父が歌っていた陸・海軍礼式歌『重い泥靴』を覚えている。「今日で十日も雨ばかり いつになったら晴れるやら 馬も砲車もぬれねずみ 青い大空恋しいぞ」

 「この歌にあるような辛抱や我慢を常に胸に秘めて生きてきた。そうか、耐久の教えやなあ」

 母校の名前通り「耐久」の人生だった。  (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒。1985(昭和60)年4月入社。2003年から編集委員(現職)。2004年から『猛虎戦記』、07年から『内田雅也の追球』を執筆。  

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