<羽生結弦を語ろう(6)>スポニチ・長久保豊“ニース落ち”から10年「同じ言葉を北京に向けて」

[ 2022年2月8日 07:30 ]

12年3月、ニース世界選手権の男子フリー。「ロミオとジュリエット」の演技終盤、雄叫びを上げクライマックスに向かう羽生(撮影・長久保豊)
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 羽生を語る上で決して外せない伝説の試合がある。12年3月、フランス・ニースで行われた世界選手権。SP7位と出遅れた羽生は練習で右足を痛めたにもかかわらず歴史に残る「ロミオとジュリエット」を舞い、表彰台まで駆け上がった。第6回は、17歳の熱い思いをスポーツ紙カメラマンでただ一人目の当たりにした本紙写真映像部編集委員・長久保豊(60)が語る「あの日」。

 ドカーンと何かが爆発したようなスタンディングオベーションでした。会場は熱狂し人々は言葉にならない声を上げる。その中でカメラ席だけは沈黙。私だけが「あいつの足、壊れて(負傷して)いたよね」と騒いでいた。声を出したら泣いているのがバレちゃうから誰も答えてくれない。やっと先輩カメラマンが振り向いて「俺、あいつのこと知ってんだよ。こんな(小さな)頃から知ってんだよ」ってハンカチを出しながら。

 「あいつ遠くへ行っちゃったよ…」。それがカメラマンたちの共通の思いでした。

 名前がコールされてスタート位置に向かうときは少し悲しげでした。無理して笑ったというか。私は負傷していることを知らなかった。冒頭の4回転、トリプルアクセルをスパーンと決めて。でも時間を追うごとに右足首と膝の柔軟性が失われ呼吸も荒くなっていく。止めた方がいいのでは、と。だってまだ17歳。ここで選手生命を懸ける意味はないと思っていました。それでも何かに食らいついていくように舞い続ける。

 「お前の足はもう限界だ」「日本の男子が世界一になれるわけがない」。意地悪な神様に耳元でささやかれても真っ向から否定する。そんな演技をする彼を止めることなんてできっこない。そして限界をつくっていたのは我々の方だと気がつきました。あの強いパトリック(チャン)に勝って五輪で金メダルを獲る。我々の夢物語を現実にしてくれそうな若者の出現に涙が出て仕方がなかった。

 この試合が終われば世界が羽生結弦を知る。そうなったら人懐っこくて話好きで、少し勝ち気なユヅ、結弦くんではいられない。もう気軽に話すこともできなくなるかも。カメラマンたちの「遠くへ…」は別離の涙でした。

 あれから。羽生結弦に魅せられて10年になる。撮りたいものに巡り合い、戦友のようなライバルたちと写真の出来を競い合った歳月は幸せだった。今は羽生結弦選手に感謝しかありません。

 あの日、荒い呼吸、震える膝で最後のステップを刻む彼の背中に声を掛けた。

 「ガンバ!もう思い切り行っちゃえ!」

 同じ言葉を北京に向けて。届け。

 ◇長久保 豊(ながくぼ・ゆたか)1962年(昭37)2月7日生まれ、東京都出身の60歳。都両国高から帯広畜産大卒業後、2年の放浪生活の後にスポニチ入社。編集局写真映像部勤務。1995年オウム真理教・村井幹部刺殺事件の「犯人が包丁を」で東京写真記者協会グランプリ受賞。以降3回の同協会部門奨励賞受賞。フィギュアスケート撮影は96~97年シーズンの本田武史、荒川静香から。今月末に定年を迎える。

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