田淵幸一氏 恩師・松永怜一氏の悲報に「体中の力が抜けていく…出会いなくして私の野球人生なし」

[ 2022年5月12日 18:40 ]

田淵幸一氏
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 野球の日本代表監督として84年ロサンゼルス五輪で金メダルを獲得した松永怜一(まつなが・れいいち)氏が12日、亡くなった。90歳だった。松永氏は法大卒業後、長くアマチュア球界で指導者の道を歩んだ。法政一では60年春、61年夏の甲子園に出場。堀越学園の監督を経て、65年に母校・法大の監督に就任した。田淵幸一、山本浩二、富田勝の「法大三羽ガラス」や、リーグ通算48勝の山中正竹らを育て、法大の黄金時代を築くなど名指導者として知られた。「法大三羽ガラス」の一人でもある田淵幸一氏が恩師の死を悼んだ。

 いつかこんな日が来ると覚悟していたが、いざ訃報に接すると体中の力が抜けていく。松永さんとの出会いなくして私の野球人生はなかった。

 甲子園を夢見て法政一高(現法政大高)に入学したときの監督が松永さんだった。外野手だったのに硬球に触りたい一心で打撃捕手を志願したら「おまえは手首の使い方がうまいなあ」。正捕手への道をつくってくれた。

 忘れられないのが月夜のノック。ボールに石灰をまぶしてフライを打ち上げる。捕っても芯を外してボソッという音がしたらケツバットが飛んできた。

 そんな熱血指導のおかげでやっと自信がついたと思ったら、松永さんは私が3年生になるとき、堀越学園の監督になって去っていった。だが、1年後に法政大学で再会。1年生春のリーグ戦からマスクをかぶらせてもらった。周囲からは「監督のコネだろ」と白い目で見られたが、そんな雑音を封じるには結果を出すしかない。

 最終カードの慶応1回戦の8回に六大学1号となる同点2ランを放ち、9回押し出し四球でサヨナラ勝ち。勢いに乗って2回戦も快勝し、優勝を決めた。そのまま正捕手に。松永さんはベンチで相手の盗塁やスクイズを察すると、マネジャーにスコアブックを立てさせて教えてくれた。

 野球の基礎を叩き込んでくれた恩師。その厳しい練習を経験していたから、阪神に入団したとき「プロの練習はこんなに楽なのか」と思った。西武に移籍して迎えた現役晩年、広岡監督の野球に耐えられたのは松永さんのおかげだ。

 引退後も事あるごとにお会いし、激励してもらった。私が20年に野球殿堂入りした時もたいそう喜んでいただいて…。ありがとうございました。ゆっくりお休み下さい。 

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