【内田雅也の広角追球】101年の時空超えた「再会」 バンクーバー朝日軍-和歌山中・桐蔭高

[ 2022年4月1日 15:18 ]

オンライン交流で桐蔭高同窓会館に集まった人びと。Zoom画面はバンクーバーの日本カナダ商工会議所・サミー高橋会長(パノラマ撮影)
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 会合は「こんばんは、そして、おはようございます」の司会者のあいさつで始まった。

 戦前、カナダで活躍した日系人野球チーム、バンクーバー朝日軍と和歌山県立桐蔭高野球部をオンラインで結んだ友好イベントが3月27日(カナダ現地時間26日)に開かれた。ビデオ会議システム「Zoom」を通じ、カナダ・バンクーバーと桐蔭高を結んだ。

 バンクーバー朝日軍が日本を初めて訪れたのが1921(大正10)年秋。約1カ月間、各地で大学、社会人チームと対戦した。唯一中学生で対戦したのが旧制・和歌山中(和中=現・桐蔭高)だった。同年夏の第7回全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会=夏の甲子園大会)優勝チームだった。

 朝日軍は1941(昭和16)年の日米開戦で自然消滅していたが、2014年、新朝日(アサヒ・ベースボール・アソシエーション)として再結成された。そして、和中との対戦から100年目となる2021年に訪日し、桐蔭高と再戦する計画を持ちかけ、準備を進めていた。コロナ禍で遠征は2度延期となり、今回オンラインでの交流会開催となった。

 冒頭に羽鳥隆・在バンクーバー日本国総領事が「野球への愛情と、野球を通じたつながりは実に感動的で意義深い」とあいさつ。新朝日のジョン・ウォン会長が「来年には訪日し、さらに友好を深め、つながりを再構築したい」と話した。

 『バンクーバー朝日物語』の著者で元スポーツアナウンサーの後藤紀夫さん、1888(明治21)年、和歌山県三尾村から渡航した「カナダ移民の父」、工野(くの)儀兵衛氏の曽孫にあたる高井利夫さん、伯父が朝日軍初代メンバーで今も調査・研究を続ける嶋洋文(ようぶん)さん、元朝日軍選手で現在100歳のケイ上西(かみにし)功一さんらがビデオで参加した。

 父親が初代朝日軍メンバーで『バンクーバー朝日軍』の著書もあるテッド・Y・フルモト(古本喜庸)さんは桐蔭高でワッペンや名刺など遺品を示しながら参加した。会合後にはグラウンドを訪れた。和中との対戦に父親も出場していた。「父が101年前に立った場所にいる。父にまた会えた気がします。私にとっての“フィールド・オブ・ドリームス”です」

 桐蔭高の有本健亮主将は野球部の活動を編集した動画を見せながら「桐蔭高校らしく頭を使った野球に加えて、パワーやスピードも発揮できるチームを目指しています」と話した。101年前の対戦で和中は5―3で朝日軍を下した。奪った得点にはバント安打や送りバント、スクイズとすべてバントが絡んでいた。

 朝日軍は、この敗戦で学んだ戦法をもとに「ブレインボール」(頭脳野球)と呼ばれる機動力を生かした野球で強豪チームとなっていった。

 桐蔭高会場の同窓会館の壁には「千載有餘情」の書が掛かっていた。陶淵明の詩の一部で、前段から読み下せば、その人はもうこの世にはいないが「千年たとうが、その思いは人の心に残っている」といった意味だろう。当時の移民たちは差別や排斥のなか、野球に夢と希望を見ていた。まさに「余情」をくみ取る機会だったと思いたい。

 今回のイベントを主催し、司会を務めた日本カナダ商工会議所のサミー高橋会長は「多くの人々とのご縁、思い出など、過去から学び、レガシー(遺産)として将来に伝えていくことが大切だと思います」と話した。

 101年前、朝日軍が和中を訪れたのは初秋9月27日だった。ポプラ並木の下にコスモスの花が咲き乱れていた、と記録にある。今回は球春。「再会」を祝うように、桜が咲き乱れていた。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大から85年4月入社。アマ野球、近鉄、阪神担当の後、野球デスク、大リーグ担当(ニューヨーク支局)、2003年編集委員(現職)。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長。主に阪神を書くコラム『内田雅也の追球』は2007年4月スタート、16年目に入った。

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