広澤克実氏 厳しくても情があった野村克也さんの「叱り」 追悼試合で思う「人を遺した」偉大さ

[ 2021年3月29日 06:30 ]

セ・リーグ   阪神8ー2ヤクルト ( 2021年3月28日    神宮 )

92年、不振の広澤にアドバイスする野村監督

 阪神、ヤクルトの両球団で野村克也監督のもとで4番を務めた広澤克実氏(58=本紙評論家)が追悼試合に際して恩師をしのんだ。同じ門下生の矢野、高津両監督の対戦に感慨を込め、佐藤輝や奥川ら今後のプロ野球界を背負う新星に“ノムラの考え”を重ねて思いをはせた。

 矢野監督も高津監督も、野村さんにものすごく大きな影響を受けた。この2人が指揮官として開幕カードで対戦していることを、感慨深く、懐かしんで見させてもらった。

 私が阪神へ移籍した00年の監督が野村さんで、正捕手になってまだ間もない当時30代前半の矢野監督は配球などさまざまなことを学んでいた。いや、ID野球をたたき込まれていた感じかな。打撃が良く、足も速かったので外野手転向の可能性もゼロではなかったと思う。野村さんとの出会いがなければ、捕手としての成功も、ひょっとしたらなかったかもしれない。

 ヤクルトに入団してきた高津監督のことも鮮明に覚えている。新人からの2年間は先発投手。3年目の93年に抑えに転向した。アンダースローの投手を指名したことにみんな驚いたものだし、野村さんならではの発想。やはり、野村さんの導きがなければ、その後の野球人としての成功もなかったのかもしれない。

 2人が怒られたのを見たことがない。「怒る」と「叱る」は違う。怒るは感情に任せて厳しい言葉をかけられることで、叱るは理路整然となぜなのかを指導してもらうこと。野村さんは怒ることはなかったし、叱ってばかりだった。

 いまもお元気だったら、阪神の佐藤輝にどういう指導をしていただろうか。おそらく打撃については「規格外やないか」とニコニコしてそうな気がする。ヤクルトの奥川ら両軍の若い選手には、技術指導よりも人間教育を口酸っぱく言ったんじゃないかなあ。服装や髪の毛、礼儀、言葉遣いなど、社会人らしくしろってね。

 もちろん、私も野村さんがいたから、今がある。情がたくさんある人だった。4番打者とは…を教えてもらったし、打てなくても4番打者の立ち居振る舞いなどは厳しかった。19年12月。カツノリらと食事を一緒にした。ボヤキも言われたが、「お前には感謝しているよ」と言ってくれたのがうれしくて、「私の方が感謝しております…」と。これが生前最後のやりとりだった。

 20年2月11日に亡くなられて、少したってご自宅へうかがったときは、カツノリが監督にヤクルトのユニホームを着させてベッドの上に寝かせていた。本当によく似合っていた。周りには阪神や楽天時代のパネルもたくさんあった。

 野村さんの言葉に「金を遺すは三流、名を遺すは二流、人を遺すのが一流」というのがある。その意味でも野村さんはまさに一流だった。追悼試合をしっかり見てくれましたか。野村さんが野球界に遺した教え子たちが、精いっぱいプレーしていますよ。

 ▽野村監督と広澤氏
 ★ヤクルト時代 90~98年の9季で1187試合628勝552敗7分けの勝率・532。データを重視するID野球で4度のリーグ優勝、3度の日本一に導く。90年当時入団6年目だった広澤氏は不動の4番を任され91、93年に打点王を獲得。94年オフに巨人へFA移籍した。
 ★阪神時代 ヤクルト監督退任直後の98年オフに就任。99~01年の3季で411試合169勝238敗4分けの勝率・415。3年連続の最下位に終わり、01年オフ、沙知代夫人の逮捕(脱税容疑)の責任を取り辞任。広澤氏は巨人を自由契約になり00年加入。主に5番を任された。

続きを表示

この記事のフォト

2021年3月29日のニュース