内田雅也が行く 猛虎の地(12)芦屋・伊藤青年宅 若林、藤村が共同生活した豪邸

[ 2019年12月13日 08:00 ]

芦屋川沿い、左側が当時、伊藤青年宅があった芦屋市前田町
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 【(12)芦屋・伊藤青年宅】

 阪神の長い歴史を振り返るとき、青年・伊藤利清(1926―98年)を忘れてはならない。戦中から戦後、多大な貢献をした功労者だった。

 最初は一人の少年ファンだった。甲陽中(現甲陽学院)入学が1940(昭和15)年。学舎は78年に移転するまで、甲子園球場と目と鼻の先。伊藤は試験の時を除き、いや試験期間中も通った。

 選手たちから「坊や」と呼ばれた。特に親しくなったのは主戦投手、若林忠志だった。甲陽中入学時からつけていた日記には<若林さんは僕の太陽だ>とある。

 伊藤の功績が光るのは終戦を迎える45(昭和20)年の「関西正月大会」の記録だ。プロ野球は前年11月で連盟(当時は日本野球報告会)が休止を発表。それでも「野球の火を消したくない」と関西4球団(阪神、阪急、朝日、産業)が45年元日から5日間、甲子園と西宮で試合を行った。

 公式記録などない「伝説」を旧制・大阪医学専門学校(現・大阪大医学部)の学生だった青年・伊藤が全試合、記録していた。スコアは伊藤独自の方式で書かれていた。56年に結婚した妻・多慶子によると「将来も永く消えずに残るように」と鉛筆で書いた後、万年筆で清書していた。

 元日のスタンドは<防空頭巾(ずきん)をかぶった人など五百人>。酒もふるまわれた。だが、3日には<サイレンが鳴り響き警報発令。中止となった。面白い試合であったのに残念である>。

 次いでの功績は戦後。若林は45年3月、妻・房の故郷、宮城県石巻に疎開した。終戦後、仙台で水産会社などを経営していた。球団代表・冨樫興一が電報や手紙で復帰を要請しても返事がなかった。46年7月、冨樫は伊藤に「返事が来ないところをみると、あなたが行くのを待っているのだろう」と話した。伊藤は東京遠征に同道し、さらに仙台まで足を伸ばして若林に会った。「阪神はいま大変です。みんなが若林さんを待っています」と訴えた。熱意が実り、若林は9月に復帰した。

 戦中、若林が暮らした西宮市甲子園六番町の自宅は空襲で焼けていた。芦屋市前田町にあった伊藤の自宅に身を寄せた。豪邸で、既に藤村富美男がいた。藤村もまた自宅が焼け、妻は他界。3歳の娘と一緒にいた。

 伊藤の両親は大阪・福島の本宅にいた。一つ屋根の下、若林、藤村と娘、伊藤という風変わりな同居生活が続いた。

 「戦後は食糧難に住宅難でしたから」という多慶子の話を覚えている。伊藤は「よく家の前で3人でキャッチボールをした」と楽しそうに振り返っていた。焼け野原で野球に夢や希望を見ていたのだろう。=敬称略= (編集委員)

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