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【コラム】金子達仁

ハリルの“放任”は代表新時代への冒険の始まり

[ 2016年11月18日 00:00 ]

<日本・サウジアラビア>前半、清武がPKを決め、日本が先制

 多くの国において、特にサッカー先進国と言われる国において、代表チームとはすなわちセレクション・チームである。

 ピンとこない方は、野球の侍ジャパンを思い描いていただきたい。あそこに呼ばれるのはどんな選手たちか。もちろん監督個人の好みもあるだろうが、基本的には所属チームで結果を出した選手たちである。もし首位打者が選ばれなかったら。最多勝投手が選ばれなかったら。ファンもメディアも盛大に反発の声をあげるに違いない。

 では、近年のサッカー日本代表はどうだっただろう。Jリーグで結果を出した選手は必ずや代表に呼ばれていただろうか。呼ばれなかった場合、ファンやメディアは怒りの声をあげていただろうか。

 答えは明白だ。

 なぜ日本では、Jリーグで結果を出していても代表に呼ばれないことが常態化してしまったのか。以前にも書いた通り、代表ばかりに注目が集まり、選手にとっての日常とも言えるリーグへの関心が薄いことも大きいが、もう一つ、見逃せない理由があるような気がしてきた。

 日本代表が、一つのクラブとして考えられてきたからではないか――。

 Jリーグがまだ成熟していなかったころは、チームの主力を抜擢(ばってき)しているだけではアジアを勝ち抜くことさえ難しかった。必然的に、歴代の監督たちは自分の好みの選手を集め、その関係を成熟させていくという、極めてクラブ的な強化の手法を取らざるをえなかった。いつしか、そうしたやり方は日本代表にとっての常識となってしまい、監督には集団をまとめる能力だけでなく、ゼロからチームをつくり上げる能力も求められるようになった。

 だが、このやり方には大きな弱点があった。一つの時代を築いたクラブが、主力選手の衰えとともに弱体化していくことがあるが、同じ弊害が、クラブ的な強化の手法をとってきた日本代表にも降りかかってきたのである。

 そういった意味からすると、15日のサウジアラビア戦における日本代表は、久々に――いや、ひょっとすると初めてみる、セレクション・チーム的な代表だった。

 ザッケローニやアギーレのチームには、監督の指向する方向性がはっきりと表れていた。だが、サウジ戦での日本代表は、監督の狙いが徹底されたというより、選手個人が自分の得意なプレーをする方向で一本化されているように見えた。大迫や原口のプレーは、あくまでも所属チームでの延長線だった。

 これはこれで、アリかもしれない。

 常に状態のいい選手が優先されるという前提が徹底されるならば、日本代表は新たな時代に突入したことになる。それがどんな化学反応を生み、いかなる結果につながるのか。日本サッカーにとっては、ちょっとした冒険と挑戦の始まりでもある。(金子達仁氏=スポーツライター)

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