【内田雅也の追球】異例の「夏休み」は「新星」を見たい 阪神、悲願の優勝へのカギ

[ 2021年7月20日 08:00 ]

オールスターブレークから飛躍した近鉄時代の吉井理人

 オールスターブレークになると思い出すシーンがある。1987(昭和62)年の夏だ。そう、まだ時代は昭和だった。当時入社3年目、近鉄担当だった。

 3試合あったオールスターゲームの移動日、7月27日、近鉄は夕方4時から本拠地・藤井寺球場で練習を行った。一塁ベンチに座った時の、人工芝独特の蒸し暑さを覚えている。

 この時、2軍から呼ばれていたのが吉井理人だった。箕島高から入団4年目の22歳。藤井寺の独身寮「球友寮」の部屋でギターを弾く青年だった。

 この年6月7日南海戦(大阪)に1軍2度目の先発登板をしたが、押し出しなど初回3失点で早々降板。その後は2軍で調整していた。

 吉井はマウンドから主力打者10人ほどを相手に投げた。オールスター出場組では大石大二郎、新井宏昌らは休んでいたが、村上隆行、山下和彦は参加していた。栗橋茂、金村義明、鈴木貴久……と並ぶ「いてまえ打線」相手に快投を演じた。速球は高め高めと少々荒れていたが、ほとんど前に打球が飛ばなかったように記憶している。

 監督・岡本伊三美が「ほーー」と目を見張っていた。球宴明けに1軍に再昇格し、8月18日の南海戦(藤井寺)では2番手で6回1/3を3失点で、プロ初勝利を手にした。当時チームは8連敗中。試合前ロッカーで「わしが連敗を止める」と豪語して、やってのけた。

 後にクローザーを任されるようになり、ヤクルト移籍を経て大リーグに挑戦、先発で32勝をあげるまでになった。

 あの夏の夕暮れの快投は覚醒する直前、キラリと光った瞬間ではなかっただろうか。

 そんな思いをニューヨーク支局にいた2002年、吉井本人に話した。当時エクスポズにいた吉井はメッツ戦の遠征でニューヨークに来ていた。昼食にグランドセントラル駅近くの日本料理店に行くと偶然、吉井がいたのだった。

 吉井は「若かったですねえ」と言った。「まだピッチングとは何なのか分かっていなかったころでした」。ただ、あの日の練習が1軍への階段をのぼるきっかけだったことは覚えていた。

 球宴休み期間は2軍選手の好機である。<監督としては伸びてきた選手を見落としてはいけない>と岡田彰布が著書『そら、そうよ 勝つ理由、負ける理由』(宝島社)で書いている。

 今年は五輪での中断も加わり、8月13日のレギュラーシーズン再開までブレーク期間が長い。阪神首脳陣はこの間に行うエキシビションゲームで積極的に若手、2軍選手を起用する方針と聞く。若手は好機到来で奮起を、首脳陣は新星発見の準備を進めたい。

 何しろ、阪神は悲願の優勝に向け、この約1カ月間の調整がカギを握っている。今春見せた開幕ダッシュを“再開幕”となる8月中旬以降にやってのけたい。そのためには現状からの底上げが必要なのだ。

 ブレーク中のことでもう一つ書いておきたい。

 吉井は引退後、指導者となり、今はロッテで投手コーチを務める。2013年、一時日本ハム投手コーチを退いた時に出した『投手論』(PHP新書)で、オールスターブレーク中の大変身の例をあげている。

 大リーグ・ブレーブスの名投手ジョン・スモルツが1991年、6月上旬まで2勝11敗だったのが、オールスター期間中にメンタルトレーニングを始めると後半は12勝2敗とひっくり返った。<大リーグにはこんな例がいくらもある>と、激励をこめて変身の可能性を示している。

 つまり「夏休み」にはグラウンドに限らず、は飛躍のチャンスが転がっているのである。 =敬称略 (編集委員)

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