気がつけば40年(24)吉村が全治1年の重傷を負った札幌の悲劇 病院送りは一人じゃなかった

[ 2020年10月13日 08:00 ]

吉村が栄村と激突して左膝じん帯断裂の重傷を負った札幌の中日戦。1988年7月7日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】記者生活40年を振り返るシリーズ。今回は1988年、全治1年の重傷を負った吉村禎章をはじめ巨人の外野手が3人も病院に送られた札幌の悲劇について触れたい。

 初夏恒例の北海道シリーズ。この年の相手は星野仙一監督率いる中日だった。35年ぶりに旭川のスタルヒン球場で行われた5日の初戦は吉村禎章、呂明賜に一発が飛び出すなど9―4で快勝し、巨人は広島を抜いて首位に浮上した。

 札幌円山球場に所を移した6日も気持ちよく花火を打ち上げた。3回だ。3番の吉村が右翼場外へ通算100号となる3試合連続の13号を放つと、4番の原辰徳は左翼席へリーグ単独トップとなる19号。5番の呂明賜も左中間スタンドへ9号。巨人では1978年8月9日の中日戦(ナゴヤ球場)の初回に王貞治、張本勲、柳田真宏が記録して以来のクリーンアップ3連発だ。

 呂明賜は6回にも左翼席へ3ランを放ち、デビュー17試合で10号に到達した。前年の1987年、大旋風を巻き起こしたボブ・ホーナー(ヤクルト)でも23試合かかった2桁本塁打である。10年ぶりのクリーンアップ3連発と呂明賜の超速大台で1面は決まり。デスクとの打ち合わせが終わった直後だった。

 北の大地のお祭りが一気に暗転する。9―1で迎えた8回表の守り。試合途中からセンターを守っていた駒田徳広が中畑清に代わって一塁に回り、センターには俊足の栄村忠広が入った。1死後、中尾孝義の打球は力なく左中間へ上がった。平凡なフライ。レフトの吉村が捕球体勢に入った、その瞬間だ。

 全速力で打球を追ってきた栄村が激突。吉村は膝を払われるような形で昏倒した。グラブに収めたボールは離さなかったが、激痛が走り、体を起こすことはできなかった。担架に乗せられて退場し、救急車で北大付属病院へ。レントゲン検査の結果、左膝外側じん帯の断裂と診断され、そのまま入院した。

 重傷ではあるが、この時点で復帰まで1年以上かかるとは想像もできなかった。紙面の扱いは呂明賜が1番手で吉村は2番手。今思えば逆だった気がするが、吉村の見出しは最悪の事態を想定しても「今季絶望か」がぎりぎりだった。

 6月13日の阪神戦(甲子園)で死球を受けて左手親指を骨折したウォーレン・クロマティに続く外野手の故障。翌7日にはクロマティの穴を十分すぎるほど埋めてきた呂明賜も続いた。4回、川又米利の打球を追って右翼フェンスに激突。左膝をフェンス上部、右肘と下あごをフェンス上のネットに強く打ち付けた。

 担架に乗せられて退場し、タクシーで北大付属病院へ。骨、じん帯には異状がなく「単なる打撲」と診断された。胸をなで下ろした呂明賜がタクシーで宿舎に引き揚げるのと入れ違いで病院へ送られたのが石井雅博だ。吉村に代わってレフトで先発出場。7回、小松辰雄の投球を右手小指付け根に受けて骨折。長期離脱を余儀なくされた。

 札幌の2試合で3人の外野手が故障。7日の試合では呂明賜の離脱後、センターの簑田浩二がライトに回り、内野手の川相昌弘がセンターに入った。川相は4回、左翼席へプロ入り初本塁打。この1点がものを言って6―5で勝ち、北海道シリーズ3連勝で2位広島に1・5ゲーム差をつけた。

 だが、外野手の相次ぐ離脱がボディーブローとなって、のちのち効いてくる。

 呂明賜は2試合スタメンを外れただけで復帰したが、勢いは完全に止まった。執拗な内角攻めにも苦しみ、故障前に・379あった打率は終わってみれば・255。17試合で10本の本塁打も最終的には79試合で16本に終わった。

 吉村は10日に渡米してスポーツ医学の権威、センチネラ病院のフランク・ジョーブ博士の診察を受け、4本ある膝のじん帯が3本切れていることが判明した。「野球選手で、これほど重傷の患者は診たことがない」とジョーブ博士。一部じん帯移植も含めた大手術を受けた。

 クロマティの骨折も長引き、クリーンアップを打つ外野手2人を欠いたチームは7月下旬に首位陥落。川相と同様に内野手の鴻野淳基や福王昭仁にも外野を守らせたが、さすがに吉村とクロマティの穴は埋まらなかった。

 替わって首位に躍り出たのは中日だった。北海道で3連敗した時点では巨人に5ゲーム差の4位だったが、その直後6連勝。1つ負けて、また6連勝。一気に首位に立ち、そのまま突っ走った。

 巨人ではリーグ連覇の雲行きが怪しくなった夏場、5年目を迎えた王貞治監督の去就が微妙になってきた。(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの65歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍でライブの予定が立っていない。

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