さらばミスタードラゴンズ 高木守道氏急死…代名詞バックトスで沸かせた名二塁手 12月に元気な姿も

[ 2020年1月18日 05:30 ]

高木守道氏
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 中日で俊足巧打の名二塁手として活躍し、監督として1994年に巨人との「10・8決戦」を指揮した高木守道(たかぎ・もりみち)氏が17日、急性心不全で死去した。78歳だった。葬儀は家族葬で営まれる。中日一筋21年間の現役時代は「ミスタードラゴンズ」と称され、通算2274安打をマーク。監督時代も長嶋茂雄監督率いる巨人と伝説の死闘を繰り広げるなど、輝かしい功績を残した。

 「ミスタードラゴンズ」と呼ばれた名手が、天国へ旅立った。中日一筋で選手、監督として一時代を築いた高木氏が急性心不全で亡くなった。昨年12月5日に名古屋市内で行われた教え子の立浪和義氏の野球殿堂入りを祝う会に出席し、元気な姿を見せた。年が明けた12日にも名古屋のラジオ番組に出演し、盟友の板東英二氏(79)と現役時代の話に花を咲かせていた。

 現役時代は名二塁手として名をはせた。代名詞のバックトス。「遊撃に素早くトスできる」とキャンプで外野フェンスや防御ネットに向かって練習を重ねてものにし、日本球界に革命を起こした。二塁手部門の守備機会、刺殺、補殺は歴代1位。努力がつくり上げた勲章だった。通算2274安打を放ち、盗塁王も3度獲得。走攻守そろった理想のリードオフマンだった。

 「二塁手・高木」のきっかけをつくったのは、長嶋茂雄氏だった。立大時代に学生コーチとして県岐阜商を指導。当時は遊撃手だった高木のうまさをノックで見抜くと「君、プロでやるんだったら二塁を守りたまえ」と勧めた。縁は続いた。74年に中日は巨人の10連覇を阻止。優勝パレードと同日に行われた巨人戦は長嶋氏の引退試合となったが、出場できず、その夜に謝罪の電話をかけた。

 その20年後には監督同士で伝説を残す。94年に首位・巨人を追い上げて同率首位に立ち、ともに最終戦となった10月8日のナゴヤ球場での試合で勝った方が優勝という展開に持ち込んだ。長嶋監督が「国民的行事」と名付けたプロ野球史上初の最終決戦。高木監督は敗れはしたが、「10・8決戦」として語り継がれ、ミスターとの激闘に「まさか、ああいう形で勝負できるなんて夢にも思わなかった」と振り返っていた。

 2度目の監督を務めた12年も優勝した原監督率いる巨人とクライマックスシリーズのファイナルステージで激突。3連勝した後に3連敗を喫し、再び「あと1勝」で敗れた。「10・8決戦」のリベンジはならず「悔しい。勝負は頑張っただけではいかん。結果を出さないといけない」と悔やみ、翌13年限りでユニホームを脱いだ。それでも、宿敵の巨人を追い詰めた歴史は色あせることはない。

 ▽10・8決戦 中日は最大10・5ゲーム差をつけられていた巨人を追い上げ、129試合を消化した時点で69勝60敗の同率首位に立った。10月8日の最終戦直接対決。中日は先発・今中ら投手陣が落合、松井らに4発を被弾。打線も11安打を放ちながら槙原―斎藤―桑田の3本柱による継投の前に3点しか奪えず、3―6で競り負けた。長嶋監督が「国民的行事」と称した一戦は視聴率48・8%を記録するなど伝説となった。

 ◆高木 守道(たかぎ・もりみち)1941年(昭16)7月17日生まれ、岐阜県出身。県岐阜商では1年夏、3年春に甲子園出場。60年に中日入りし、5月7日の大洋戦で史上初の高卒新人初打席本塁打をマーク。俊足巧打の二塁手として盗塁王3度、ベストナイン7度。二塁手で通算2179試合出場は歴代単独1位。78年から選手兼任コーチを務め、80年に引退した。ヘッドコーチだった86年はシーズン途中で休養した山内一弘監督の代行を務めた。92~95、12、13年に中日監督。06年野球殿堂入り。右投げ右打ち。

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