“平成の三四郎”古賀稔彦さん死す がん闘病、昨年5月に腎臓片方摘出…53歳早すぎる旅立ち

[ 2021年3月25日 05:30 ]

92年のバルセロナ五輪・男子71キロ級で金メダルを獲得し、雄叫びを上げる古賀稔彦さん
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 「平成の三四郎」の異名を取った柔道家で、92年バルセロナ五輪男子71キロ級金メダリストの古賀稔彦(こが・としひこ)さんが24日、川崎市内の自宅で亡くなった。53歳だった。関係者によると、昨春からがんで闘病中だった。美しい一本背負いを武器に五輪に3大会連続で出場し、指導者としても五輪2大会連続金メダルの谷本歩実らを育てた希代の柔道家が、道半ばでこの世を去った。葬儀・告別式は29日に営まれるが、時間や場所は非公表。

 関係者によると古賀さんはがんを患い、昨年5月に腎臓を片方摘出した。退院後は周囲が心配するほどやせ細っていた。昨秋の講道館杯全日本体重別選手権では現場を訪れ「まあまあ元気」などと笑顔を見せていたが、がんは体中に転移していたもようで、終末期になると見られる腹水貯留の兆候もあったという。

 今年に入ってからは痛みを和らげるためのモルヒネ投与も受けており、この日早朝に自宅で息を引き取った。弔問した関係者は「(自宅併設の古賀塾の)道場でキレイな顔で眠っていましたね」と様子を語った。

 佐賀県出身の古賀さんは小1から柔道を始め、中学から柔道私塾の名門・講道学舎に入門。全日本柔道連盟(全柔連)元強化委員長の吉村和郎氏らの指導の下で才能を開花させた。世田谷学園高時代は全国高校総体を2連覇。日体大3年だった88年にはソウル五輪に出場した。しかし、金メダル最有力とされながら3回戦敗退。初の挫折を味わった。

 キャリアのハイライトは、2度目の五輪となった92年のバルセロナだった。現地入り後の調整練習で講道学舎の後輩でもある78キロ級代表の吉田秀彦(現パーク24総監督)と一本勝負をした際に、左膝じん帯損傷で全治1カ月の大ケガを負った。歩くこともままならない状態で、指導者たちは棄権の可能性も探ったほどだった。

 だが、大嫌いだったという痛み止めの注射を打ち、コーチに背負われて当日の計量会場入り。左膝への負担を考え、伝家の宝刀だった一本背負い投げを極力自重しながら、並み居る強豪を次々と破り金メダルを獲得した。帰国後の検査では左膝以上に重症だったのが胃潰瘍。猛烈な重圧にも打ち勝った精神力による偉業だった。

 90年には体重無差別で争われる全日本選手権にも挑戦。決勝ではバルセロナ五輪95キロ超級銀メダルで50キロ以上も重い小川直也に一本負けしたが、中量級選手として「柔よく剛を制す」を体現した戦いぶりが称賛された。

 シドニー五輪代表を逃した2000年には指導者に転じ、04年アテネ、08年北京五輪を連覇した谷本歩実らを育てた。03年に川崎市内に町道場「古賀塾」を設立。07年4月には環太平洋大柔道部の総監督に就任するなど、後進育成にも尽力した。

 5月10日には佐賀県内で東京五輪の聖火リレーのランナーを務 める予定だった。日体大の後輩で古賀さんの再来とも言われる阿部一二三らが活躍する大舞台を見ることなく、旅立ってしまった。

 ◆古賀 稔彦(こが・としひこ)1967年(昭42)11月21日生まれ、佐賀県出身。小1で柔道を始め、中学から柔道私塾の名門「講道学舎」に寄宿。東京・弦巻中3年で全中を制覇。世田谷学園に進み、高2、3年時に全国高校総体個人戦を2連覇。86年4月に日体大に進み、嘉納杯、正力国際など各種大会を制して88年ソウル五輪代表に選出。92年バルセロナ大会の71キロ級で金メダル、96年アトランタは78キロ級で銀メダルを獲得した。世界選手権は89、91、95年に優勝。90年には体重無差別で争う全日本選手権で準優勝を果たした。段位8段。得意技は一本背負い。愛称は「平成の三四郎」。1メートル69。血液型A。

 《伝家の宝刀・一本背負いは芸術の域》古賀さんの講道学舎入門時、指導者の吉村和郎氏にたぐいまれな背筋力を評価され得意技とした。右肘を壊した影響で一本背負い専門となっていったとされる。全柔連の金野潤強化委員長は「みんなまねしたけど誰もまねできなかった」と回想。背筋力の強さはもちろん(1)相手を上に持ち上げる浮力(2)その浮いた体の下に自分の体(背中)を滑り込ませる回転力(左右)(3)前に相手を持って行く回転力(前後)、という3つのバランスが抜群だったと分析した。

 さらに、相手を前に崩す一本背負いと正反対に、相手を後ろに倒す捨て身小内刈りも得意としており、相手が防御しづらかった点も指摘。「何万回も稽古して磨き上げた名人芸だった」と評した。

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