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【コラム】金子達仁

予選の厳しさの差が日米“存在感の差”に

[ 2015年9月11日 05:30 ]

<アフガニスタン・日本>後半、ベンチに座って試合を見守るハリルホジッチ監督
Photo By スポニチ

 若いころの苦労は買ってでもしろ、と言う。可愛い子には旅をさせろ、とも言う。まったくもってごもっとも。これ以上の金言はないな、と思う。人生についてはともかく、サッカーについて、であるならば。

 20世紀後半、国際サッカー連盟が必死になって市場を開拓しようとしていたのは、米国と日本だった。どちらもサッカー不毛の地。しかしどちらも経済大国。そのどちらか、あるいは両方の関心を引き付けられれば、サッカーは新しい時代に突入することになる――そう考えた人間がいたということだろう。その結果が、94年のW杯米国大会であり、02年のW杯日韓大会だった。

 FIFAの狙いは見事にあたり、特に日本では、もはやW杯の存在を知らない人は皆無といっていいほどになった。米国での認知度も飛躍的に高まってきた、と聞く。

 ただ、W杯における双方の代表チームの存在感については、ここにきて大きな開きが出てきている。決勝トーナメント進出がニュースではなくなりつつある米国に対し、日本は相変わらずのアウトサイダー。注目し、騒いでいるのは日本人だけ、という状況が続いている。

 なぜこの差は生まれたのか。理由の一つとして考えられるのは、予選の厳しさである。参加国の少ない北中米カリブ海予選を戦う米国は、本大会へ行くために、必ずメキシコと戦わなければならない。少なくとも4年に一度は、敵意を漲(みなぎ)らせたアステカの10万観衆とも戦うという修羅場を、チームとして経験しているのである。

 ところが、参加国の多いアジアを戦う日本は、98年大会の予選以来、最大の宿敵とも言える韓国とのW杯予選を経験していない。結果、多くの日本代表選手にとって、W杯は人生最大の重圧を覚える場であり続けている。

 身びいきを承知で言わせていただくならば、わたしは、日米両国の選手に実力差はほとんどないと思う。むしろ、技術的には日本の方が勝っているかもしれない。だが、なぜかW杯になると別人のようになってしまう日本に対し、米国のサッカーは常に勇敢さを感じさせる。

 違いを分けているのは若いころ――つまり予選での苦労の差ではないか、とわたしは思う。

 今回のアジア2次予選。日本はたった2試合しかアウェーを経験することができない。先日のアフガニスタン戦も、10月のシリア戦も、行われるのは中立地である。おそらく、テレビ局はアウェー感を演出しようと躍起になるだろうが、残念ながら、それは作られた緊迫感でしかない。

 予選でひりつくような戦いを経験することができず、興行を重視するあまり、アウェーでの親善試合も増えてこない日本。米国との差が開いているのは、残念ながら必然の結果である。(金子達仁氏=スポーツライター)

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