楽悟家・笑福亭松之助さん逝く さんまが惚れた人間としての器の大きさ

[ 2019年3月7日 10:00 ]

死去した笑福亭松之助さん
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 昭和を彩った大御所芸人が旅立つことが多くなった。仕方のないこととは分かっているが、寂しさは募るばかりだ。最近、明石家さんまの師匠である楽悟家・笑福亭松之助さんが老衰のため93歳で亡くなった。この20年、何度かインタビューをする機会に恵まれた。いつもフランクで温かみのある師匠だった。

 耳が少し遠くなり、「えっ?何?」と聞き返す松之助さんに、こちらが大きな声で質問すると「そんなもん、あんなええ格好しいの落語家ダメでっせ」と「ドキッ」とするような受け答え。ただ、話の終わりにはいつもニコッと笑う。わざと散々なことを言って混ぜっ返すのも話芸の一つ。記者へのリップサービスだった。

 松之助さんは“近代漫才の祖”横山エンタツ・花菱アチャコに憧れてお笑い界に飛び込んだ。人を笑わせることに目がなかった。1948年に5代目笑福亭松鶴に弟子入り。落語家としての顔だけではなく、コメディーからミュージカルまで役者としても活動。1959年に始まった吉本新喜劇の台本も手がけている。実は新喜劇の初代座長でもある。今でいうマルチプレーヤーの走りだった。

 「文章が上手くなりたい。作家の三島由紀夫を崇拝している。それと比べられたらやってられへんけどね(笑い)」と話していたのは、ブログ「楽悟家 松ちゃん 年齢なし日記」を書いていた頃だ。とにかく新しいことを取り入れることに貪欲だった。

 自称していた“楽悟家”は亡き師匠・5代目笑福亭松鶴の戒名から頂戴したものだ。落語だけに収まらず、楽しく生きる。さんまになる前の杉本高文少年が、1974年に弟子入りをお願いするため京都花月を訪れた際、松之助さんから「なんでわしを選んだんや」と尋ねられ「あんた、センスあるから」と言ったのも、芸人としての幅と同時に、人間としての器の大きさを感じたからだろう。

 2011年に亡くなった喜味こいしさんも若き日の松之助さんを知る一人だった。大阪・今里の松之助さんの自宅を訪れた時には「せっかく、こいし師匠が来てくれはったんやから」と夫人を質屋に向かわせて酒を買ってきたこともあったという。05年のインタビューでは「松ちゃんは大声で歌いながら花街を練り歩いたり陽気な酒でした。ぱったり辞めたけど若い頃はよう飲んでた。宴会で便所を占拠してほかの芸人を通せんぼしたり、イタズラもようしてたな。愉快なええ男やったわ」と懐かしんでいた。

 松之助さんの言葉では「芸人やから人と同じことやったらあかん。ただ自分の人生、何をやってもええんです」が心に残る。弟子のさんまの座右の銘である「生きてるだけで丸儲け」にもつながる考えだ。

 松之助さんは昨年、芸歴70年を迎え、少しでも何かやりたいとスタッフに隠れながら落語の稽古をしていたという。「最後の最後まで芸人でしたわ」とは、よく知るスタッフの一人だ。「楽しいことは何ぞないかいな」と突き詰めながら人生を全うした。いたずらっ子のような、あの笑顔。もう一度、大きな声で話を聞きたかった。合掌。(記者コラム)

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