猛虎人国記

猛虎人国記(66)~和歌山県(下)~ 天覧アーチ、2冠王の藤本勝巳

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 紀南をいく。箕島から6人。山本康夫は後の名将、尾藤公(ただし)とバッテリーを組んだ左投手。61年の入団当初、近畿大1年の尾藤が公園で投球を受けて手伝った=『尾藤公 一期一会一球』=。

 嶋田宗彦、嶋田章弘の兄弟は84年ドラフトでそろって入団。兄は78年春から4季連続甲子園。79年は春夏連覇。阿久悠が「最高試合」と称した星稜戦で延長12回裏2死「ホームラン打ってきます」と尾藤に告げ同点弾。住友金属(和歌山市)で82年都市対抗優勝。準々決勝・ヤマハ戦で9回裏2死から逆転サヨナラ3ランを放った。84年五輪日本代表で金メダル。阪神では86年に91試合に出た。兄弟バッテリーは1年目に実現。快速球の弟も肩を故障し、外野手に転向した。

 石井雅博は77年選抜優勝。巨人から移籍。畑山俊二は近畿大1年で首位打者。現スカウト。高山智行は米独立リーグから入団した。

 梅本正之は耐久の先輩、球団役員・田坂岩男の紹介もあり55年入団。3年目4勝をあげた。引退後は「ノックの名人」としてコーチ、虎風荘寮長を16年間務めた。

 捕手・吉本亮は御坊商工(現紀央館)は98年移籍入団し、02年は矢野輝弘(燿大)負傷の穴を埋めた。退団後、ホンダ鈴鹿で監督も務めた。

 南部(みなべ)から4番打者が2人出た。無名だった藤本勝巳は入団直後に打者転向。59年から4番に座り天覧試合で一時逆転の2ランを放った。60年は本塁打、打点の2冠。62年もチーム2冠で優勝に貢献した。63年、歌手・島倉千代子と結婚(6年後離婚)。浜中治(おさむ)は01年プロ初本塁打がサヨナラ弾。02年巨人戦でサヨナラ弾。03年開幕から4番を打ち4月に10本塁打。だが5、6月と右肩負傷が相次ぎ、後に2度の手術を受けた。オリックス、ヤクルトと渡り、昨季限りで現役を退いた。

 上田二朗(次朗、次郎)は南部3年夏の和歌山大会で選抜準優勝、藤田平の市和商を破り4強。東海大で大学選手権優勝。ドラフト1位。22勝の73年、最終戦V逸の話は幾度か書いた。引退後もコーチや球団職員を務め昨年末に退職した。

 滝川博己は珍しい左投げ右打ち。主に守備固めで外野を守った。

 県端の新宮には越境入学、阪神で“エース”の2投手がいる。左腕・前岡(井崎)勤也は三重県亀山から前岡家の養子となり入学。海草中で嶋清一と同窓の監督・古角(こすみ)俊郎が嶋を思って育てた。春夏3度の甲子園で快投。争奪戦の末、青木一三が生家を口説いて獲得。だが卒業式から帰阪当日にオープン戦先発を命じられ大乱調。剛球は戻らず“悲運のエース”と呼ばれる。藪恵壹(恵市)は三重県御浜町生まれ。両親が「偽装離婚」し、新宮市在住で入学。阪神では低迷期を支えた“暗黒時代のエース”。FAで大リーグ挑戦し、マイナーも浪人も経験した苦労が投手コーチで生きるだろう。

 強肩の石垣一夫は56年正捕手。引退後、衆議院議員を務めた。米川清二は57年選抜出場。峯本達雄は新日鉄堺から76年ドラフト4位。78年7月5日、中日戦(甲子園)で劣勢の3回、代打本塁打を放ち、田淵、掛布の3発など逆転勝利に導いた。引退後は査定担当などを歴任し今は管理部長を務める。

 紀ノ川筋に戻る。那賀から土井豊、移籍の横田久則の投手。粉河の土橋修は日本新薬から入団の右腕。笠田の戸口美嗣は左腕。伊都の三塁手・大原博志は退団後、日鉄二瀬で都市対抗7度出場、産別対抗MVP。初芝橋本1期生の橋本大祐は腰痛から3年で引退。トレーナーとして鍼灸(しんきゅう)整骨院を営む。=敬称略=

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