猛虎人国記

猛虎人国記(34)~宮城県 腰痛に泣いた「和製カンセコ」

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 金子誠一を「和製カンセコ」と書いた。阪神がドラフト3位で指名し、1988年(昭63)11月28日、東京・池袋で仮契約を終えた日だ。

 同年、大リーグ史上初の40本塁打―40盗塁を達成したホセ・カンセコ(アスレチックス)になぞらえた。1メートル90、96キロ、遠投130メートル、百メートル11秒台と巨漢強肩俊足。担当スカウト・今成泰章は同年9月の社会人日本選手権予選で太田市営球場バックスクリーンを超える160メートル弾(!)を見たと証言した。「他のスカウトはいなかった。オレだけが見た」と得意だった。背番号も本家と同じ「33」に決まった。

 当時は本田技研(和光市)の主砲。東北高のエース4番(夏は5番)で82年春夏と甲子園出場。法大3年秋に外野手に転向し、4番を打った。

 プロ1年目の5月21日大洋戦(甲子園)で遠藤一彦から初本塁打。接戦の代走でも起用され「併殺破壊」で勝利に貢献した。強肩俊足は本物で、問題の打撃。時折、腰痛に悩まされ、ついに力を発揮できずに終わった。

 引退後は生命保険会社に勤め、独立。生命保険・損害保険代理店を立ち上げ、奮闘している。

 東北高出身では若生智男だ。高校時代、監督・松尾勝栄の指導で正しいフォームが身についた。56年毎日入り。市川市国府台の合宿所に入り、2軍監督・西本幸雄に鍛えられた。江戸川べりを毎朝夕2時間走り「だから21年間も現役で通せた」。毎日・大毎―阪神―広島で通算121勝、3球団で優勝を経験した。阪神移籍は「世紀のトレード」と言われた山内一弘―小山正明の後に追加されたマイケル・ソロムコとの交換だった。引退後は投手コーチとして5球団16年間も指導を続けた。

 同じ東北高出身の葛西稔は生まれ育った青森県の回で触れた。

 ライバルの仙台育英に移る。左腕・高橋顕法(あきのり)は高校時代、故障で公式戦登板なし。広島にテスト入団し、契約金を辞退した。広島自由契約の後、阪神へもテスト入団。96年ジュニアオールスター出場。98年5月10日ヤクルト戦(甲子園)では唯一となる1軍登板を果たした。1―9の9回表、打者5人に23球、安打1、三振1、四球1で無失点と記録が残る。

 金村曉(さとる)は気仙沼の出身。仙台育英で94年夏の甲子園8強。日本ハムにドラフト1位で入り、98年には最優秀防御率を獲るなどエース格となった。阪神移籍は07年11月の中村泰広との交換トレード。阪神では故障もあり、1勝に終わった。

 甲子園出場のない宮城水産高(石巻市)から2人が入団している。星沢純は戦後、石巻の「日和クラブ」に所属。夫人の実家のある石巻に疎開していた若林忠志の目にとまり、47年に入団した。48年には先発登板もしている。阿部良男は外野手。ノンプロ全常磐(常磐炭鉱)から69年ドラフト4位で西鉄入り。72年には1番打者で活躍した。阪神には73年オフ、藤井栄治との交換トレードで移籍。在籍1年で自由契約となりロッテに移った。 =敬称略=

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