猛虎人国記

猛虎人国記(31)~佐賀県~ 江川キラーの「宴会部長」

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 大正時代の大投手、谷口五郎(野球殿堂入り)は佐賀県鹿島で生まれ育った。釜山商から早大に進み、左腕のエースとして活躍した。飛田穂洲によると<涼しい目の美少年>で、捕手・久慈次郎から「チョッピーちゃん」と呼ばれた=『熱球三十年』=。卒業後、満州(中国東北部)に渡り、大連実業団で都市対抗第2回大会(1928年)優勝投手。まだプロ野球のない時代である。戦後は巨人、大洋で投手コーチも務めた。

 この谷口がかわいがったのが佐賀商から大連に渡った外野手・松尾五郎。同郷、同名の縁から自宅に引き取り、面倒をみた。40年、プロ野球が初の満州リーグ戦を行った際、大連実業団OBの松木謙治郎が勧誘し、入団となった。43年召集。戦後は故郷に戻り、杵島(きしま)炭鉱から52、53年と都市対抗に出た。

 長らく途絶えた佐賀県人の阪神入り第2号は渡辺博敏の移籍。伊万里から日大を出て、教職に就いたが、野球を忘れられず、70年西鉄のテストに合格。阪神には72年オフ、金銭トレードで移った。横手投げ投手で、1軍6試合に投げた。

 引退後、運動用品メーカーに勤めた。99年、国際協力機構(JICA)の知人を通じ、ガーナで野球指導を行い「原点を思い返した。野球を世界に広めたい」と思い立った。アジア野球連盟の依頼でパキスタン代表監督となり、03年10月、五輪予選を兼ねたアジア選手権(札幌)でインドネシア相手に歴史的1勝をあげた。05年からはタイ代表監督を務めている。

 加藤博一は多久工(現多久)時代、打球が場外の国道や警察署に飛び出すため、ネットが張られた。「加藤ネット」と呼ばれた。70年にドラフト外で西鉄(現西武)入り。76年に阪神移籍、レギュラーを奪った。79年7月28日の甲子園、プロ10年目で初本塁打の放った投手が江川卓(巨人)。以後もよく打ち「江川キラー」と呼ばれた。

 「宴会部長」でもあった。納会でピンクレディー、ファン感謝祭でイモ欽トリオの物まねをやり、喝采を浴びた。得意の物まねについて田淵幸一(本紙評論家)は「私の打撃フォームをまね、不調に陥る兆候も指摘してくれた」と語っている。

 明るい性格でチームを盛り上げ、ファンの人気を呼んだ。08年1月、肺がんのため56歳で他界。後の移籍先、横浜(現DeNA)―阪神戦で「追悼試合」を行った。

 永尾泰憲は旧制佐賀中の佐賀西出身。高校2年夏、3年生が抜けた新チームで部員不足となり、各教室を歩いて選手を集めた逸話が伝わる。いすず自動車に進み、72年ドラフト1位でヤクルト入りした。阪神には82年1月の移籍。85年には長崎啓二との左の代打コンビで日本一に貢献した。87年引退。コーチとして若手育成、スカウトとして逸材発掘に手腕を発揮した。

 梶原和隆は伊万里商から愛知工大を経ての入団。速球が魅力だったが、右肩痛など故障に泣いた。退団後はクラブチームで投げ、指導も行っている。 =敬称略=

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