猛虎人国記

猛虎人国記(13)~三重県~ 「酒仙投手」が残した功績

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 西村幸生を書かねばならない。昨年は生誕100年だった。1910年(明43)11月10日、宇治山田市(現伊勢市)に生まれた。山田中(現宇治山田)から愛知電鉄(現名鉄)、関大を経て37年1月、創設2年目のタイガースに入った。

 勧誘した球団重役2人は関大OBだった。『初代巨人キラー~阪神の名投手・西村幸生の生涯』(中村博男)によると、常務・田中義一は「沢村に勝てる投手がほしい」、支配人・中川政人は「巨人には東京六大学のスター選手が並ぶ。同じ宇治山田生まれの沢村もいる」と口説いた。

 東京や巨人や同郷の沢村栄治への対抗心があったろう。37年は15勝3敗、防御率1・48で2冠。秋季優勝、年度優勝決定戦でも4勝中3勝をあげ、初の日本一に導いた。沢村との投げ合いも4勝1敗と圧倒した。38年も連覇に貢献した。

 野球記者、大和球士は主戦投手をもじり「酒仙投手」と書いた。酒豪伝説には事欠かない。東京の定宿、龍名館分店で監督・石本秀一と格闘した。甲子園の店の看板を倒して歩き、警察が駆けつけた。だが試合では快投を演じ、『鈴木龍二回顧録』は<不思議な快男児>と称した。評論家・大井広介(76年没)の『タイガース史』には若林忠志の話で<酒ばかりあふって、ああいうピッチングができる道理はない。その半面、西村ほど練習した投手はいない>とある。

 39年暮れ、在籍3年で退団した理由は右肩痛や幹部との確執が伝わる。新京(現長春)の満州電電で投げ、44年応召。45年4月フィリピン・バタンガスで不帰の人となった。77年殿堂入り。故郷の伊勢市倉田山公園野球場には沢村と相対して胸像が建っている。

 西村の後、三重県人の阪神入りは戦後54年の東(あずま)郷幸(さとゆき)、池田芳己までない。2人は同年、セ・リーグのファームチームによる新日本リーグ結成で、「ジャガーズ」と名付けられた2軍要員として採用された。捕手の東は阪神退団後、天王寺鉄道局で都市対抗に3度出場。再び評価され、59年11月、国鉄でプロ野球に復帰している。

 松下立美(竜三)は津商から投手で入団。76年に2試合の登板を果たした後、野手に転向した。78年には12試合に出場した。引退後、故郷に戻り、05年10月、津藩主・藤堂高虎にちなんだ「三重高虎ベースボールクラブ」を結成した。部長として活動を続ける。

 三重で春夏3度甲子園の土を踏んだ宮本四郎は中京大-大洋-阪急と移り、阪神には87年に移籍。引退後、打撃投手を務めた。移動の新幹線に乗り遅れそうになり、2人で東京駅を全力疾走した朝を思い出す。台湾・和信にも渡った。タクシー運転手もした。横浜スカウトだった06年6月、名古屋のホテルで脳内出血のため急死。54歳での悲報に耳を疑った。

 浜田知明は電電東海から入団1年目の83年6月に先発で初登板を果たした。打撃投手から今はフロントで活躍する。

 ヤクルトから移籍の広沢好輝は大リーグに挑んだ新庄剛志の良きパートナーだった。=敬称略=

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