猛虎人国記

猛虎人国記(43)~大阪府(五)~ 江夏と「江夏に勝った男」の友情

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 江夏豊は春夏の甲子園大会開会式は必ずテレビで観る。それも「きちんと正座して観る」。
 晴れの入場行進をたたえ、地方大会で敗れ去った球児を思う。プロでは何百試合と投げた甲子園だが、高校野球の代表校には永遠の憧れがある。

 尼崎・園田中から高校進学時、強豪の報徳学園と浪商(現大体大浪商)を紹介され断った。例えば浪商は堤防をただ走る「白虎隊」に入る気がうせた。新興の大阪学院への進学に反骨が見える。

 入学時からエース。1年夏は3回戦で浪商に2-4。バント、盗塁でかき回された。2年夏は浪商を4-1で破り8強進出。最後の3年夏は準決勝で桜塚に0-1で敗れた。3回裏にポテン打と2つの悪送球で失った1点が決勝点だった。

 相手は右横手投げの奥田敏輝(としてる)。6試合連続完封だった。敗戦後、江夏は近づき声をかけた。「よう投げたのう」。奥田は腰痛に耐えて投げ、決勝は北陽に0-4。甲子園はならなかった。

 1966年(昭41)第1次ドラフト(当時は2度開催)。阪神は1位で江夏、5位で奥田を指名。大学進学をやめ、2人はともにプロに進んだ。

 大投手となっていく江夏のかたわら、「江夏に勝った男」奥田は69年ウエスタン・リーグ最多勝など「2軍のエース」だった。1軍登板9試合、勝利も敗戦も0のまま72年に現役引退となった。

 2人の交流は終生続いた。江夏は引退後のある時、奥田の自宅を訪ねた。奥田が息子とともに車でホテルまで送ると「ちょっと待っててや」とケーキを抱えて戻ってきた。<箱を子供に手渡し、「お父ちゃんのような立派な野球選手になるんやで」といいながら、子供の頭を撫(な)でた>=後藤正治『牙―江夏豊とその時代』=。奥田が病床に伏してからも、よく見舞った。奥田は06年、肝臓がんで永眠。57歳だった。

 江夏を生んだ大阪学院からは78年、大串尚弘(祥寅)-外山雅則のバッテリーが入団。96年選抜で初の甲子園出場も果たした。だが、激戦区大阪にあって、甲子園とは縁がない学校の選手も多く活躍している。

 藤井栄治は堺市の登美丘出身唯一のプロ。関西大を経て入団。1年目62年から5番を打ち、2リーグ分立後初優勝に貢献した。無口で「鉄仮面」と異名がついた。スポニチ評論家の頃、見知らぬ町に出張。飛び込みで入ったスナックで見せた愛きょうとカラオケに仮面の下の素顔を知る。

 田尾安志は泉尾で府大会準決勝進出。同志社大でも投手で4番(または3、5番)を打った。阪神では88年にサヨナラ本塁打3本を放った。

 益山性旭(せいきょく)は今では強豪校となった履正社の前身、福島商出身のプロ1号。帝京大から76年ドラフト1位だった。山田和英は昨年夏、甲子園初出場を果たした東大阪大柏原(当時柏原)出身。高校3年時、阪神ドラフト6位指名を拒否。大商大4年時、再び阪神から4位指名を受けての入団。肩・肘の故障で1軍1試合で去った。

 大阪桐蔭が91年夏、創部5年目で全国制覇した当時の4番が萩原誠。91年ドラフトで単独1位入札だった。現役で岩田稔、新人の西田直斗は同校から5人目の阪神入りとなった。

 矢野燿大(あきひろ)(輝弘)は桜宮から東北福祉大に進み、中日からの移籍。リード面はもちろん阪神在籍時の1178安打は大阪人で岡田彰布、今岡誠に次ぐ。現スポニチ評論家。久保康友は奈良県橿原市出身。関大一を98年春準優勝、夏8強に導いた。松下電器(現パナソニック)を経てロッテから移籍。右の主戦格に期待する。=敬称略=

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