猛虎人国記

猛虎人国記(40)~大阪府(ニ)~ 草創期彩った河内人…山口、本堂、菊矢 

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 球団草創期のタイガースを振り返ると、河内の選手が中心にいた。

 今の東大阪市にある日新商(現日新)は1934年(昭9)春、35年春夏と甲子園に出場。35年夏は藤村富美男の呉港中に10-11の乱打戦で敗れた。打線の中心にいたのが山口政信だった。

 同年11月5日、門前真佐人に次ぐ入団契約第2号。松木謙治郎は<景浦を和製ベーブ・ルースとするなら山口はジョー・ディマジオといえる名中堅手>と書いた。スマートでハンサム、地元大阪出身で人気があった。球団史によると、中学時代から「着流しに雪駄(せった)ばきで登校していた」。評論家・虫明(むしあけ)亜呂無(あろむ)が創設時のタイガースを「いなせ」と称した雰囲気を醸し出したのは山口の存在も大きかっただろう。

 36年春、3番センターに定着し、盗塁王(29個)。年間通じても43個で島秀之助(金鯱)を引き離して最多だった。また春秋ともリーグ最多四球と選球眼も光った。38年春は打率・299で連続優勝に貢献し、同年秋に兵役にとられた。

 1年後輩の本堂保次(保弥=やすや)は山口の勧誘を受け、36年12月末に入団。日新商時代は一塁手で、プロ入り後、二塁手に転向した。農家に生まれ、小学生時代から毎朝5時起きで畑仕事を手伝い、後の強靱(きょうじん)な足腰、腕力につながった。戦後は「知の本堂」と呼ばれた。サイン盗みが得意で、相手監督の動きを察知し、捕手・土井垣武に伝達する守備の司令塔だった。そう言えば、近鉄スカウト時代にマージャンで卓を囲むと、同僚・河西俊雄の隣で、いつもにこやかに笑っていた。手が読めていたのだろう。

 中田金一は39年入団。ロイド眼鏡をかけ、いつもナインを笑わせる人気者。戦後、シベリア抑留から帰国して復帰。のち審判員となった。

 同じ河内の八尾中(現八尾)からは菊矢吉男がいる。32年春夏と外野手で甲子園出場。当時から剛球投手だった。関大に進み、創設初年度36年に入団。「仮想沢村栄治」として投げた。だが37年春、トレードで大東京(ライオン)に移った。入団条件に契約した練習生の弟の力量が足りず、松木謙治郎は<わずかな人件費で惜しい投手を失った>と記している。戦後は高校野球指導者となり、富田林監督として59年選抜に出場した。

 浪速中(現浪速)の遊撃手・大橋棣(やすし)は関大から門司鉄道管理局に進み、関大OBの常務・田中義一の筋で42年10月に入団。当時既に32歳だった。戦後は米子東監督として54年選抜に導いた。

 京阪商は戦後、市立守口高となり、今では守口市にある府立芦間がその流れをひく。乾国雄は京阪商から42年入団。兵役で11人が抜け、内野手補強が急務だった。1年目から出場し、戦後復帰した後、国民リーグ・大塚に転じた。

 戦前タイガースに在籍した大阪府出身の選手は、(一)で取り上げた浪華商(現大体大浪商)の松広金一と、今回の(ニ)で書いた6人、計わずか7人しかいなかったのだ。戦後になり、101人が猛虎の門をくぐったのである。=敬称略=

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