猛虎人国記

猛虎人国記(53)~福岡県(上)~ 真弓、若菜、久保…を育んだ柳川野球

[ 2012年3月27日 06:00 ]

 柳川商(柳川)は歴代29人のプロを生み、うち10人が阪神入りしている。強豪校にあって3番遊撃に真弓明信(前阪神監督)、5番捕手に若菜嘉晴(本紙評論家)がいた1971年(昭46)は史上最強と呼ばれた。ただ本番ではもろく4回戦止まりだった。

 監督・福田精一は「選手を型にはめず伸ばす」という指導方針が大成するプロ向きの選手を生み出した。バントはほとんど使わず、木製バットの当時も「本塁打を狙え」と言った。小柄な真弓も自著『ジョーの野球讃歌』で8試合で6本塁打した記憶を紹介している。

 真弓は熊本県玉名郡南関町(なんかんまち)生まれ。現役晩年、自主トレを故郷に近い玉名温泉で行い、温泉街のスナックで飲み、歌ったのを思い出す。父親の転勤で小学4年時、大牟田市に引っ越した。6年生の夏休み、夏の甲子園大会で全国制覇した三池工の優勝パレードを見て「将来、野球選手になる」と誓った有名な逸話がある。先頭のオープンカーに監督・原貢、7歳の長男・辰徳(現巨人監督)も見守っていた。

 歴木中時代、同じ市内にいた若菜とはライバルで仲も良く、「菜っぱ」と呼んだ。若菜は高校卒業時に西鉄(現西武)入り。真弓は社会人・電電九州を経て1年後、西鉄からドラフト3位指名を受け、再びチームメートに。78年オフの田淵幸一らとのトレードでもそろって阪神に移籍した。

 75年選抜にエースで出場した加倉克馬(一馬)はクラウン入団後に外野手転向。82年オフ、阪神に移籍した。

 翌76年夏の甲子園に出たチームはエースに久保康生、1番一塁に立花義家がおり、大会前、原辰徳(巨人)の東海大相模、「サッシー」酒井圭一(ヤクルト)の長崎海星、選抜優勝の崇徳を破って優勝候補にあげられていた。久保は初戦で三重を3安打完封し、同校甲子園6戦目で初勝利。だが、PL学園戦でけん制悪送球が相次ぎ0―1で敗れた。久保は近鉄、立花はクラウン1位指名。阪神には88年に久保、92年に立花が移籍し、ともに過ごした。

 清家正和は久保らの1年後輩。77年ドラフト3位で阪神入り。西里幸喜は「九州の清原」と呼ばれた大型内野手。樋口一紀は住友金属(和歌山)黄金期の内野手。林威助(リンウェイツゥ)は台湾・台中から野球留学。高校通算54本塁打。2年夏の福岡大会8試合で7本塁打を放った。

 大先輩に左腕・権藤正利がいる。出身は佐賀県鳥栖市だが通学に柳川商が近かった。洋松―東映から阪神には65年移籍。69年7月13日中日戦で通算100勝目を挙げた時の登板数597、敗戦数145はともにプロ野球史上最多。55―57年の28連敗も記録で、苦労と努力の跡がにじむ。

 清家や野田雲平(近鉄)、田中和博(広島)がいた76年夏の柳川商を福岡大会決勝で8―5と退け甲子園に出たのが九州産。松永浩美のいた小倉工も破っている。エース梅津茂美が力投し、2年生の吉竹春樹が6番一塁だった。3年で4番を打った。西武移籍後に引退し、97年、監督・吉田義男がコーチで呼び戻した。要職を歴任し、現在は2軍監督を務める。 =敬称略=

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